ワーテルロー_(映画)
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ワーテルロー
Waterloo
監督
セルゲイ・ボンダルチュク
脚本セルゲイ・ボンダルチュク
H・A・L・クレイグ
ヴィットリオ・ボニチェリ
製作ディノ・デ・ラウレンティス
出演者ロッド・スタイガー
クリストファー・プラマー
ジャック・ホーキンス
オーソン・ウェルズ
ヴァージニア・マッケンナ
音楽ニーノ・ロータ
撮影アルマンド・ナンヌッツィ
公開 1970年10月29日
1970年12月19日
上映時間134分
製作国 イタリア
ソビエト連邦
言語英語
ロシア語[要検証 – ノート]
製作費$25,000,000
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『ワーテルロー』(Waterloo) は、1970年イタリアソ連合作映画。
概要

1815年6月18日に行われたワーテルローの戦いを主題にした映画。フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトとイギリス軍司令官ウェリントン公アーサー・ウェルズリーの戦いを描く。早朝から夕方までの戦況の変化を克明に描写、イギリス軍拠点ウーグモンへの攻撃に始まり、フランス歩兵の前進、イギリス竜騎兵の突撃と全滅、フランス騎兵の突撃とイギリス軍方陣の戦闘、フランス近衛兵の投入と全滅などが細かく描かれている。

撮影には当時のソ連軍が全面協力し、英独蘭仏合わせて総勢20万の大軍が激突した戦いを合成などを一切使わずに再現した。ナポレオンを題材にした映画では、レフ・トルストイ原作でソ連が映像化した『戦争と平和』に並ぶスケール感を持つ。

イタリアの著名プロデューサー、ディノ・デ・ラウレンティスがソ連のモスフィルムと組んで製作したが、全世界のマーケットを視野に入れたため、キャストには欧米の一流俳優が起用された。ソ連オリジナル全長版は240分の上映時間[要検証 – ノート]。

イギリスでは人気を得たものの、制作費を回収するには至らず商業的には失敗に終わった。このため、スタンリー・キューブリックは念願だったナポレオン伝の映画化を断念した[1]
あらすじ.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この節にあるあらすじは作品内容に比して不十分です。あらすじの書き方を参考にして、物語全体の流れが理解できるように(ネタバレも含めて)、著作権侵害しないようご自身の言葉で加筆を行なってください。(2021年2月)(使い方

ナポレオン・ボナパルトはその優れた軍事的・政治的手腕、革命的思想によって全ヨーロッパを席巻したが、スペインロシアライプツィヒで敗北を重ね、1814年4月、オーストリア・ロシア軍をはじめとする同盟軍のパリ入城を許していた。ミシェル・ネイをはじめとする元帥たちはナポレオンに退位を迫り、一度は退位を拒否し同盟軍への徹底抗戦を唱えたナポレオンも、パリ防衛を任せていたオーギュスト・マルモン元帥の降伏を知るとやむなく退位文章に署名する。フォンテーヌブロー宮殿老近衛隊に別れを告げた後、ナポレオンは放流先のエルバ島へ向かった。

しかし10か月後の1815年3月、ナポレオンはエルバ島を脱出し、フランスへと上陸した。フランス国王ルイ18世はナポレオン討伐の兵を差し向けるが、彼らはことごとくナポレオンに帰順、兵士や市民の歓声の中、ナポレオンはパリ入りし、ルイ18世を追放して再び皇帝の座に着いた。

各国がフランスに宣戦、ナポレオンを法外処分にしてフランスに対する包囲網を築きあげる中、ナポレオンはブリュッセル近郊にいたウェリントン公アーサー・ウェルズリー元帥率いる英蘭連合軍、ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヒャー元帥率いるプロイセン王国軍の各個撃破を意図し、みずから兵を率いて6月15日夜、ブリュッセルへ向かう。


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