ヴァルデマール・クメント
Waldemar Kmentt
出生名Waldemar Kmentt
生誕 (1929-02-02) 1929年2月2日
出身地 オーストリア ウィーン
死没 (2015-01-21) 2015年1月21日(85歳没)
オーストリア ウィーン
学歴ウィーン国立音楽大学
ジャンルクラシック音楽
職業声楽家(テノール)
オペラ歌手
音楽教育者
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル クラシック音楽
ヴァルデマール・クメント(ドイツ語:Waldemar Kmentt、1929年2月2日 - 2015年1月21日)はオーストリアの声楽家(テノール)。オペラ歌手。音楽教育者。ワルデマール、ヴァルデマー、ワルデマーなど表記は一定しない[1]。
生涯ヴァルデマール・クメントの墓
ヴァルデマール・クメントはウィーンで上流階級の家庭に生まれた。彼の母親は、画家のグレーテ・クメント=モンタンドン[2]。若かりし時にウィーン国立歌劇場の火災を通行人として体験している[3]。彼は1947年に彼の同級生のエーベルハルト・ウェヒターとフリッツ・ウール
と一緒に高校を卒業した[4]。彼は元々はピアニストを目指していたが、1949年からはウィーン国立音楽アカデミーで声楽を学び、エリーザベト・ラドー、アドルフ・フォーゲル、ハンス・ドゥハンに師事した[5]。すでに21歳のとき、彼はカール・ベームの指揮の下、ベートーヴェンの交響曲第9番のテノールパートを歌うよう招かれた。1951年からはウィーン国立歌劇場のメンバーとなり35年以上所属した。1951年6月26日、セルゲイ・プロコフィエフ『三つのオレンジへの恋』王子役でデビュー[6]。彼はリング通りに面した国立歌劇場で、トータルで1480回の公演で79の役を演じている。1945年3月の爆撃で歌劇場の建物が破壊されたため、1955年に再開されるまでは、国立歌劇場の公演はアン・デア・ウィーン劇場またはウィーン・フォルクスオーパーを代替会場としてで行われた。彼が国立歌劇場に最後に出演したのは2005年11月25日リヒャルト・シュトラウス『ナクソス島のアリアドネ』召使いであった。若い時はリリック・テノールとして、 ウィーン・モーツァルトアンサンブルのメンバーとして活躍した。 彼の長いキャリアのレパートリーは、リリックなものや、若々しい英雄的なものから性格俳優的なものまで、オペラとオペレッタの役柄は80以上ある。彼はヨーロッパと日本とアメリカのすべての主要なオペラハウスで歌ってきた。