ワルシャワ・ゲットー
[Wikipedia|▼Menu]
ワルシャワゲットーの罫線 ( ⇒インタラクティブマップ)ワルシャワ・ゲットー記念広場にあるワルシャワ・ゲットー蜂起を記念する「ゲットー英雄記念碑」。中央に描かれているのは蜂起指導者モルデハイ・アニエレヴィッツ

ワルシャワ・ゲットー (Getto Warszawskie) は、第二次世界大戦中にナチス・ドイツポーランドワルシャワ市内に設置したゲットー(ユダヤ人隔離地域)である。ナチスが創設したゲットーの中では最大規模のものである。
ゲットーの歴史
前史

ユダヤ教の祭祀でトーラーを読む聖職者

ゲットー内の正統派信者

ユダヤ人15世紀にはすでにワルシャワで暮らしていたが、1527年ポーランド王国国王ジグムント1世はユダヤ人がワルシャワ(現在のワルシャワ旧市街の城壁の内側)に住む事を禁止した。ただしユダヤ人たちは王室の許可のもと、旧市街の南東側、ワルシャワ王宮ヴィスワ川の間の一帯に自分たちの街(のち18世紀に再開発され、マリエンシュタット地区となる)を建設して商売や自治をおこなう権利を認められた。このような自由居住区は「シュテットル」と呼ばれ、強制居住区である「ゲットー」と区別される。ヨーロッパの他国と異なり民族的に寛容な政策を国家の根幹となす伝統としていたポーランドでは、ユダヤ人はごく一部の大都市の旧市街を除いて、基本的にどこでも自由に住むことができた。旧市街のユダヤ人居住制限も18世紀末以降に徐々に緩和されていき、旧市街にユダヤ人が住むことも問題とされなくなった。

のち19世紀半ばより旧市街の南と西の一帯に近代の市街地が急速に発展していくと、キリスト教徒もユダヤ教徒も比較的裕福な人々は近代市街地やその郊外へと居を移していき、旧市街や新市街(中世の新市街であり歴史地区の一部)には貧困層が集中して住むようになった。この状態は20世紀のはじめまで続いた。

19世紀中頃と20世紀に入ってからの二・三十年間にワルシャワのユダヤ人人口は急増し、ワルシャワのユダヤ人共同体(ケヒッラー)が急成長した[1]第二次世界大戦直前のワルシャワ市には37万5,000人のユダヤ人が暮らしていた。これはワルシャワの全人口の30%を占めていた。世界的にもワルシャワは、アメリカ合衆国の都市ニューヨークに次いでユダヤ人人口の多い都市だった[2]

ワルシャワ市のユダヤ人は大多数がマリエンシュタットとは別に旧市街地の西側に近代になって新しく形成されていた広大なユダヤ人街にまとまって暮らしていた。ここはユダヤ教徒のうち会社員や商店主などの中間所得層や実業家や高級官僚などの富裕層がたくさん住んでいた。この地区では公用語のポーランド語ではなく、ユダヤ人同士ではイディッシュ語が話されるなど独特なユダヤ人共同体が形成されていた。当時のヨーロッパでもっとも高いビルは街のユダヤ系実業家によってここに建てられたオフィスビルで、これは奇跡的にも第二次大戦の戦火で崩壊せず、現在まで残っている。ワルシャワのユダヤ人たちのなかにはユダヤ教正統派が多数いた。彼らは黒い服装をして、男性は髭を生やし、こめかみの毛をカールにするという典型的なユダヤ人風の容貌をした人たちだった[3]。いっぽうで、映画『戦場のピアニスト』のモデルとなったウワディスワフ・シュピルマンのような、ユダヤ系の家の出でも世俗的な人々もたくさんおり、彼らはキリスト教徒のポーランド人たちに混じり、キリスト教徒たちと変わりなくワルシャワの各界で活躍し、一部はキリスト教徒に改宗してキリスト教徒の社会に入っていた。このようにワルシャワのユダヤ教徒の社会は伝統的に多様な人々で構成されていた。ユダヤ人街は正統派をはじめとした保守的な傾向のある人々が多く住んでおり、より世俗的ないし非ユダヤ教的な人々は他の地区の住宅地でキリスト教徒たちに混じって住んでいることが多かった。
ゲットーの設置と封鎖アダム・チェルニアコフ

1939年9月1日ドイツ軍ポーランドへ進攻した。ワルシャワはドイツ軍に占領され、ハンス・フランクを総督とするポーランド総督府領に編入された。1939年10月4日にワルシャワ市に突入したゲシュタポが、同市のユダヤ人居住区を監督していたユダヤ人共同体(ケヒッラー)(en:Kehilla)本部を占拠した。ユダヤ人共同体の長だったアダム・チェルニアコフユダヤ人評議会の議長に任命し、ユダヤ人評議会の創設を命じた。戦前からユダヤ人居住区の指導者だった者たちが評議会のメンバーとなった[# 1]

ワルシャワの手工業者の80%はユダヤ人労働者であり、ワルシャワの生産体制はユダヤ人に支えられていたため、ドイツ当局も当初は彼らを完全に隔離することには慎重だったが、ワルシャワ、特にユダヤ人居住区ではチフスが流行していたため、結局、隔離が必要と判断されるようになっていった[5]

1939年11月7日、ワルシャワ地区行政長官(Verwaltungschef des Distrikts Warschau)[# 2]ルートヴィヒ・フィッシャー突撃隊中将(de:Ludwig Fischer)は、市内のユダヤ人居住区をゲットーにしてユダヤ人を閉じこめるべきであると提案した。同じ時期、ドイツ軍司令官はユダヤ人居住区に「伝染病汚染に付き立ち入り禁止区域」を設営し、ドイツ兵の出入りを禁じた[6]ユダヤ人居住区を隔離する壁の建設(1940年8月)

1940年3月以降、ワルシャワ市内、特にユダヤ人居住区のチフスが深刻になった。駐留するドイツ兵への感染を心配したドイツ当局は、1940年3月にユダヤ人評議会に命令を下してユダヤ人居住区の周辺を壁で囲む事を命じた。壁の建設はユダヤ人評議会の負担で行われた[7]

1940年9月の会議でポーランド総督ハンス・フランクは「ワルシャワの50万人のユダヤ人は全ワルシャワ住民に対する危険を意味する。彼らがうろつきまわることをもはや許容できない」と述べた[8][9]

1940年10月2日にはゲットー建設の正式な命令が下され、1940年11月に完成した。元来のユダヤ人居住区の三分の二の広さであった。11万3000人のポーランド人がゲットーに指定された地区から追われ、代わって13万8000人のユダヤ人がそこへ入れられた。さらに1941年2月から4月にかけて、ワルシャワ西部から連れてこられた7万2000人のユダヤ人がワルシャワ・ゲットーに送り込まれた[10][9][11]。1941年3月の時点でワルシャワ・ゲットーの人口は44.5万人だった。これはナチスの創設したゲットーの中でも最大規模の物であった[7]

1940年11月16日にゲットーは封鎖され、自由な出入りはできなくなった[12][13]。ゲットーの入口には両側に警備が配された。内側はユダヤ人ゲットー警察(ユダヤ人評議会指揮下)、外側はポーランド人とドイツ人による民警組織によって警備されていた。ゲットー住民は、ゲットーの外へ出る事が絶対的に必要である事を証明できた場合にのみ、通行許可証を与えられて、そこを通過することができた[14]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:79 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef