ワルサーP38
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この項目では、ドイツの自動拳銃について説明しています。1997年に放送されたルパン三世のテレビスペシャルについては「ルパン三世 ワルサーP38」をご覧ください。

ワルサーP38Pistole 38 (P. 38)
概要
種類自動拳銃
製造国 ドイツ国
西ドイツ
チェコスロバキア
設計・製造カール・ワルサー社他
性能
口径9mm
銃身長125mm
ライフリング6条右回り
使用弾薬9x19mmパラベラム弾
装弾数8発
作動方式ダブルアクション
プロップアップ式ショートリコイル
全長216mm
重量945g
銃口初速350m/s
有効射程50m
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ワルサーP38(: Walther P38)は、カール・ワルサー社製の9mm軍用自動式拳銃1937年にHeeres-Pistole(HP)の名で開発され、翌1938年にP38[注 1]としてドイツ国防軍の制式拳銃に採用された。第二次世界大戦中はルガーP08と共にドイツ軍によって広く使用され、終戦までに約120万丁が製造された。
開発と生産

1930年代、水面下で再軍備を模索していたヴァイマル共和国軍では、高価格と機構の信頼性について問題を抱えていた当時の制式拳銃、ルガーP08の更新計画が持ち上がった。1929年に警察向け拳銃PPを発表したばかりであったワルサー社は、この動きを受けて軍部向け新型拳銃の開発に乗り出し[1]、まず1934年に、PPを9mmパラベラム弾仕様に大型化したMP (Millitarische-Pistole) を試作した。しかし、MPの固定バレルとシンプルブローバック方式は使用される9mm弾に対して脆弱であったことから、ワルサー社は改めて1935年ショートリコイルを採用したAP (Armee-Pistole) を開発し、軍に提案した。このAPは既に後のP38に近い外観を有していたが、撃鉄が内装式でコッキングされているかどうか直感的に分かりづらい点を軍当局は好まなかった為、製造は少数にとどまった。それらの試作品の中には75mmの短銃身仕様も存在した。

APに対する評価を踏まえ、ワルサー社は1937年に撃鉄を外装式に変更したHP (Heeres-Pistole) を完成させた。陸軍兵器局で提出品の試験が続けられる間、ワルサーHPは民間市場向けに販売が開始され、第二次世界大戦勃発まではアメリカにも輸出された。スウェーデン軍1939年1940年に計1,500挺のHPを購入し、m/39として制式化した。民間向けとして、通常の9mmパラベラム弾仕様以外に、少数の7.65x21mmパラベラム弾や.38スーパー弾、.45ACP弾仕様も製造された。

1938年、HPはドイツ国防軍によって制式採用され、P38の名称が与えられた。翌1939年春から生産が開始され、ドイツ国防軍で実用試験に供された。HPとP38のエキストラクターは当初は内蔵式であったが、軍の改善要求を受け、排莢が左側へスムーズに行われるよう露出した構造に変更された。更に軍用であるP38については、清掃の容易化の為にグリップのすべり止めがチェッカリングから畝状に並ぶ溝に改められた。

1940年4月にドイツ国防軍での試験が完了し、軍は410,600挺を発注した。銃の左側に入れられたワルサー社のロゴは、1940年秋に機密保持のためコード番号「480」の刻印に置換えられた。この刻印は企業名をアルファベットの秘匿コードに置き換える新方針の導入に伴い、程なくしてワルサー社を示すacと製造年の数字下二桁の組み合わせに変更された。ワルサー社では1945年までに約584,500挺が生産され、民生用であるHPの刻印を持つ製品は1944年半ばまで製造された。


ドイツ国防軍は月産10,000挺以上の製造を望んでいたが、ワルサー社の生産能力ではその目標をかろうじて満たす事しかできなかったため、軍は1940年6月にモーゼル社に対し、ルガーP08の生産を終了してP38の生産を開始するよう要求した。しかし、同社によるP38の生産開始は1942年11月まで遅れ、それまではP08の量産が継続された。モーゼル社製P38には秘匿コードbyf、1945年からはSVWが打刻され、約323,000挺が生産された。

1941年9月からはシュプレーヴェルク(英語版) 社もP38の製造に加わり、翌年夏より本格的な量産が開始された。同社の秘匿コードはcyqで、1945年4月に工場がソ連軍に占拠されるまでに約283,300挺が生産された。

この他、1942年にベーメン・メーレン保護領のベーミッシェ・ヴァフェンファブリーク (Bohmische Waffenfabrik) 社にて100挺が組立てられたという軍需省の記録が残されている。

大戦末期、プレス鋼板と電気溶接による試作品も作られたが、1丁のみを生産しただけであった。

1945年の終戦時、独ソ戦の舞台となった東ヨーロッパ各国にはドイツ軍からの鹵獲・接収品としてのP38が大量に存在していた。一方、ドイツ本国に進駐したアメリカ軍なども、国内に備蓄されていたP38を一定数入手している。これにより、戦後は東西各国の軍・警察にてP38が採用され、一部では1990年代まで使用された[2]

モーゼル社は1945年4月20日にP38の製造を終了したが、5月10日には現地に進駐したフランス軍の命令により製造が再開されている。これは事前に連合国間で交わされたドイツ国内での武器製造を禁じる合意への明確な違反であった。モーゼル社の製造コードもSVW45として維持され、1946年にはSVW46となった。フランス向けP38の大部分は第一次インドシナ戦争只中の仏領インドシナへと送られた。皮肉なことに、これを受け取ったフランス外人部隊の中には敗戦後に志願した元ドイツ軍人も少なからず含まれていたという。フランス向けP38はパーカー処理のために明るい灰色に見えるものが多く、後年コレクターからは「グレイゴースト」と通称された[2]1971年スーダンクーデター(英語版)後、政府軍に逮捕される反乱首謀者ハッシャム・アル=アッタ(英語版)少佐。兵士の1人がP38を手にしている

シュプレーヴェルク社が所在したチェコスロヴァキアも、残っていた部品を用いて1946年に約3,000挺を組立て、CZ46と命名した。


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