ワリード1世
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ウマイヤ朝第6代カリフ
アミール・アル=ムウミニーン
ハリーファト・アッラーフ[1]
ヒジュラ暦89年(西暦707/8年)にダマスクスで鋳造されたワリード1世のディナール金貨
在位705年10月9日 - 715年2月23日
全名アブル=アッバース・アル=ワリード・ブン・アブドゥルマリク・ブン・マルワーン
出生674年頃
マディーナ
死去715年2月23日
ダイル・ムッラーン
ワリード1世(アル=ワリード・ブン・アブドゥルマリク・ブン・マルワーン, アラビア語: ?????? ?? ??? ????? ?? ?????, ラテン文字転写: al-Wal?d b. ?Abd al-Malik b. Marw?n, 674年頃 - 715年2月23日)は、第6代のウマイヤ朝のカリフである(在位:705年10月9日 - 715年2月23日)[注 1]。
ワリードはウマイヤ朝第5代カリフのアブドゥルマリクの息子として生まれた。王子時代には696年から699年にかけて毎年ビザンツ帝国に対する襲撃を指揮し、メッカに至るシリア砂漠の街道沿いに要塞を建設した。その後、祖父のマルワーン1世によって後継者に指名されていたアブドゥルマリクの弟のアブドゥルアズィーズ(英語版)が705年5月に死去するとアブドゥルアズィーズに代わるカリフの後継者候補となり、同年10月のアブドゥルマリクの死去後にカリフの地位を継承した。
アブドゥルマリクが取り組んでいた中央集権化政策、イスラーム的イデオロギーに基づいた国家建設、そして領土の拡張といった各種の努力はワリードの下でも継続された。その一方でワリードは統治にあたってウマイヤ朝の領土の東半分を治めていたイラク総督のアル=ハッジャージュ・ブン・ユースフ(英語版)の指導力に大きく依存し、そのハッジャージュの指導の下で東方のマー・ワラー・アンナフルとシンドが新たに征服された。一方の西方ではイフリーキヤ総督のムーサー・ブン・ヌサイル(英語版)がマグリブ西部とヒスパニアの征服を進めた。ワリードはこれらの征服で得られた富を背景としてダマスクスにウマイヤ・モスクを建設し、さらにはエルサレムのアル=アクサー・モスクやマディーナの預言者のモスクなどの建築や拡張に資金を投じた。また、シリアのアラブ系イスラーム教徒の貧困層や障害者を支援する社会福祉事業にも取り組んだ。
ワリードの治世は国内的には平和と繁栄の時代であり、ウマイヤ朝の全盛期であったと考えられている。ワリード個人の政治的な功績には対立していたアラブ部族の派閥であるヤマン族(英語版)とカイス族(英語版)の勢力の均衡を維持したことなどが挙げられるが、ワリードがその治世の成功に果たした直接的な役割は明確ではなく、成功の一方で起きていたウマイヤ朝の王族への多額の交付金や莫大な軍事費の支出は後継者たちにとって大きな財政的負担となった。 ワリードはウマイヤ朝の創設者であり初代カリフであるムアーウィヤ(在位:661年 - 680年)の治世中の674年頃にマディーナで生まれた[3]。父親は同じくウマイヤ家の出身でムアーウィヤの遠戚にあたるアブドゥルマリク・ブン・マルワーンである[3]。ムアーウィヤがシリアに居住するウマイヤ家の支流のスフヤーン家に属していたのに対し、ワリードの一族はヒジャーズ(メッカとマディーナが存在するアラビア半島西部)に居住するより大規模な支流であるアブー・アル=アース
背景と初期の経歴
683年にメッカを拠点とするアブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルがウマイヤ朝に対抗してカリフを称し、イスラーム世界における第二次内乱が勃発した。その結果としてほとんどの地域に対するウマイヤ朝の支配が失われると、ヒジャーズに居住していたウマイヤ家の一門は684年にアブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルによってシリアへ追放された。しかし、ワリードの祖父にあたる一門の長老格のマルワーン・ブン・アル=ハカム(マルワーン1世、在位:684年 - 685年)が追放先のシリアで親ウマイヤ朝のアラブ諸部族からカリフとして認められ、これらの部族の支援を得たマルワーン1世は死去するまでの間にシリアとエジプトに対するウマイヤ朝の支配を回復させた[5]。ワリードの父親のアブドゥルマリクはマルワーン1世の後を継ぎ、ウマイヤ朝が失った残りの地域であるイラク、ペルシア、およびアラビアを692年までに再征服した。そしてイラク総督のアル=ハッジャージュ・ブン・ユースフ(英語版)による強力な支援を得て多くの中央集権化政策を実施するだけでなく、ウマイヤ朝の領土の拡大に向けた取り組みも強化した[6]。
その一方でビザンツ帝国に対する戦争は630年代のイスラーム教徒によるシリアの征服(英語版)以来続いており、689年には休戦協定が成立したものの、692年には協定が破られ紛争が再開された。これ以降ウマイヤ朝はアラブとビザンツ帝国の国境地帯(スグール(英語版))だけでなく、さらに遠方のビザンツ領内に向けて毎年軍事行動を展開するようになった。ワリードは父親のアブドゥルマリクの治世中の696年から699年にかけて毎年これらの軍事行動を率いた[7]。696年の夏季の作戦ではマラティヤ(メリテネ)とマッシーサ(英語版)(モプスエスティア)の間の地域を襲撃し、その翌年にはアラビア語の史料においてアトマルの名で知られるマラティヤの北に位置する場所を攻撃対象とした[8]。また、698年にはメッカに向けて行われる例年の巡礼(ハッジ)を指揮した[7]。今日では遺跡となっているカスル・ブルクはワリードがまだ王子であった700年か701年に建設もしくは拡張されたシリア砂漠の前哨基地である。
ワリードは700年か701年に要塞化されたシリア砂漠の前哨基地であるカスル・ブルク(英語版)の建設、あるいは拡張を支援した。この要塞は北に位置するパルミラと、南に位置するアズラク・オアシス(英語版)およびワーディー・スィルハーン(英語版)の盆地を結び、最終的にマディーナとメッカに至る街道上に位置していた[9]。このワリードによる支援は「アミールのアル=ワリード、信徒の長の息子」と刻まれている碑文の存在によって裏付けられている[10]。