ワラキア蜂起(ワラキアほうき、ワラキア農民蜂起とも)(ルーマニア語:Revolu?ia de la 1821(1821年革命))とは1821年、オスマン帝国支配下のワラキア公国で発生した蜂起。ギリシャ独立戦争と同時に行われたが、ロシアの協力を得ることができずオスマン帝国によって鎮圧された。
背景
オスマン帝国の侵攻ミハイ勇敢侯
オスマン帝国がヨーロッパへ勢力拡大に動き、コソボの戦いでバルカン諸侯軍を撃破するとオスマン帝国のバルカン半島支配が決定的となった。そのため、ブルガリア、セルビアはオスマン帝国支配下となりギリシャ、ボスニア、アルバニアもその攻撃を受けた。そのなか、現在のルーマニア南部に位置するワラキアのミルチャ1世 (en) はオスマン帝国の宗主権を受け入れざるを得ない状況に陥り[1]、1411年以降、オスマン帝国へ朝貢を行い[2]、その公位もオスマン帝国の意思によって左右される事態に至った[# 1][4]。
一時期、ウラド3世の時代には遠征してきたオスマン帝国スルタンメフメト2世を2度に渡って撃退し[5]、ミハイ勇敢侯 (en) の時代にはオスマン帝国を撃退してモルダヴィア、トランシルバニアを併合、ルーマニア統一に成功した[# 2]。しかし、ミハイ勇敢侯が死去すると再びワラキアはオスマン帝国支配下となったが[6]、ギリシャ、セルビア、ブルガリアと違い半独立状態で自治権は与えられた[7]。
当初、モルダヴィア、ワラキアはオスマン帝国へ貢納することで自治権を認められていたが、公爵の地位などをめぐって貴族(ボィエール) (en) らの間で争いが生じた。このため、ボィエールらは自らを有利にするためにオスマン帝国の高官らへ賄賂を送るようになったが、これは公爵の地位をオスマン帝国が左右することにつながった[# 3][8][9]。そしてオスマン帝国占領下で認められた正教会を抑えていたためにその地位が向上していたギリシャ人らがワラキア、モルダヴィアへ移住しはじめた[10]。ワラキアの貴族、16世紀後半
露土戦争 (1710年-1711年)でオスマン帝国が勝利した1711年以降、ワラキア及びモルダヴィアの諸侯の地位はオスマン帝国の監督下となり、その公位をオスマン帝国で特権を有していたギリシャ人であるファナリオティスが務めるようになった。この中にはイプシランディス家 (en) 、マヴロコルダトス家 (en) といった後にギリシャ独立戦争で活躍する一族も着任した[# 4][11][12]。そしてこのオスマン帝国による統治は徐々に肥大化していたオスマン帝国の維持のために貢納など搾取され、果てには公位でさえも競売される事態に至り[13]、なおかつ極一部の公位を買うことのできるファナリオティスらに独占された[14]。
ワラキア、モルダヴィア両公国は軍隊が廃止されて儀礼など必要最小限にされ、外交権もオスマン帝国の管理下に置かれた。そして搾取はワラキアの人々の困窮と反感をもたらし、18世紀以降、農民らは土地から逃亡し、さらにヨーロッパがオスマン帝国に対して優位になるとオスマン帝国は国の維持のために搾取を強化、これにワラキアの人々は抵抗を強めていった[14][15][16]。