ワトキン・ウィリアムズ=ウィン_(第3代準男爵)
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サー・ワトキン・ウィリアムズ=ウィン
サー・ワトキン・ウィリアムズ=ウィンの肖像画、1740年頃。
個人情報
生誕1692年頃
イングランド王国、オスウェストリー(英語版)近くのランフォルダ(Llanforda)
死没1749年9月20日(1749-09-20)(57歳)
グレートブリテン王国、リワボン(英語版)
墓地 グレートブリテン王国、リワボン(英語版)、セント・メアリーズ教会
政党トーリー党
配偶者アン・ヴォーン(Anne Vaughan)
フランシス・シェイカリー(Frances Shakerley)
子供ジョン・ウィリアムズ・ウィン
メアリー・ウィリアムズ
ワトキン・ウィリアムズ=ウィン(英語版)
第2代準男爵ウィリアム・ウィリアムズ
ジェーン・セルウォール(Jane Thelwall)
出身校ジーサス・カレッジ(英語版)
職業庶民院議員

第3代準男爵サー・ワトキン・ウィリアムズ=ウィン(英語: Sir Watkin Williams-Wynn, 3rd Baronet、1692年頃 - 1749年9月26日)はウェールズの地主、トーリー党ジャコバイトに属する政治家。首相ロバート・ウォルポールの政敵であり、1742年のウォルポール失脚にも関与した。1745年ジャコバイト蜂起の直前に亡命ステュアート家と交渉したが、彼自身は蜂起に参加しなかった。1749年、狩猟の事故で死去。
生涯

第2代準男爵ウィリアム・ウィリアムズとジェーン・セルウォール(Jane Thelwall)の長男として生まれた。祖父は父と同名の初代準男爵ウィリアム・ウィリアムズ(英語版)で、ジェームズ2世の治世にイングランド及びウェールズ法務次官(英語版)を務め、1688年に七人の主教(英語版)を起訴した者だった[1]ウィンステイ、1793年頃。

ウィリアムズ=ウィンは1人目の妻アン・ヴォーン(Ann Vaughan、1695年頃 - 1748年)を通してモンゴメリーシャー(英語版)とデンビーシャーで大領地を獲得、やがて北ウェールズで飛び抜けた大地主になった。1719年、名前にWynnを付け加えることを条件にウィンステイ(英語版)の領地を継承、続いて1740年の父の死去により彼の準男爵位と領地を継承した。1748年3月にアンが死去すると、名付け子のフランシス・シェイカリー(Frances Shakerley、1721年 - 1803年)と再婚した。1749年に跡継ぎのワトキン・ウィリアムズ=ウィン(英語版)が生まれたが、その数か月後の1749年9月に狩猟の事故で死亡した。
政歴サー・ジョン・ハインド・コットン。同じくトーリー党員であり、1742年のウォルポール追い落としにも関与した。

ジーザス・カレッジを卒業した後、1716年にデンビーシャー選挙区(英語版)で当選して庶民院議員になった。彼の演説が記録上にはじめて現れたのは1727年のことだったが、彼はトーリー党ジャコバイト派の活動的な一員だった。ウェールズのジャコバイト組織であるCycle of the White Roseの指導者として、1722年イギリス総選挙の間には「大胆にも国王の肖像画を燃やし」、アタベリー陰謀事件の後に国王ジョージ1世への支持声明が持ち上がったときにもそれに反対した。また、1728年にオスウェストリー(英語版)市長を、1732年にチェスター市長を務めた[2]

財産と家族のコネにより、ウィリアムズ=ウィンは圧倒的な政治力を持つようになり、1722年イギリス総選挙においてトーリー党は北ウェールズの11議席のうち9議席を獲得した[3]。とはいうものの、激しく争われた1722年の選挙はロバート・ウォルポールとホイッグ党の支配を確認するにとどまり、トーリー党は政府から排除されたままだった。その結果、より急進的なトーリー党員はジャコバイト支持を示し続けた。1733年のチェスター市長選挙ではウィリアムズ=ウィンが炭鉱夫を駆り出してホイッグ党の支持者を脅かしたが、「ジャコバイト」と公然と表明することは少なく、トーリー党がウェールズにおける国教会忌避(英語版)に反対したことに起因する[4]

イングランドとウェールズのジャコバイト支持の複雑さは1736年にウィリアムズ=ウィンらトーリー党のジャコバイト派が審査法廃止に反対票を投じたことで示された。審査法を廃止することで、イングランド国教会に属さない者、とりわけ国教会忌避者や亡命ステュアート家などのカトリックへの法的制限が取り払われるはずだった。反対票が投じられた理由は主に反カトリックだったが、ウェールズではメソジストの復興への反対も理由の1つだった[5]。この敵意は1639年から1651年までの三王国戦争の起因となった宗教対立の記憶によるものだった。

トーリー党の指導者サー・ウィリアム・ウィンダムが1740年に死去すると、ウィリアムズ=ウィンは「イングランドで最も熱狂的なジャコバイト」とされるサー・ジョン・ハインド・コットンとともに反ウォルポール運動を率いた[6]。ウィリアムズ=ウィンと違い、コットンは雄弁家であり、議会で反ウォルポール運動をおこした[7]

1741年イギリス総選挙において、ウォルポールはデンビーシャー選挙協力のウィリアムズ=ウィンの議席を標的にし、結果はウィリアムズ=ウィンの1,352票対対立候補の933票だったが、1,352票のうち594票が無効とされたため、対立候補が勝利した。ウィリアムズ=ウィンは代わりにモンゴメリーシャー選挙区(英語版)の議席で登院、1742年にウォルポールが辞任した後は上告してデンビーシャーの議席を取り戻した。しかし、ウォルポールの失脚で得したのは主にいわゆる愛国ホイッグ党(英語版)とゴア男爵(1742年に王璽尚書に就任)率いるトーリー党の一派だった。これによりウィリアムズ=ウィンや第4代ボーフォート公爵などのジャコバイトがステュアート家の代表との交渉を再開した[8]

1744年初、コットンはヘンリー・ペラムブロード・ボトム内閣に入閣、ウィリアムズ=ウィンははじめて政府を支持するよう投票した[1]。イギリスとフランスは当時オーストリア継承戦争で戦っていたが、彼は1744年10月に秘密裏にヴェルサイユ宮殿に向かい、フランス王ルイ15世からジャコバイト蜂起への支援の確約を得た。1721年から1742年までの首相でホイッグ党出身のロバート・ウォルポール

多くのジャコバイトと同じく、ウィリアムズ=ウィンの支持はフランス軍による大規模なイングランド上陸を条件とするものだった。1745年ジャコバイト蜂起チャールズ・エドワード・ステュアートがイングランドに侵攻したとき、ウィリアムズ=ウィンは議会に登院するためにロンドンに留まり、フランス軍が到着したときの支持を確約するのみに留まった。


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