ワシーリー・エロシェンコ
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ヴァスィリー・エロシェンコ
中村彝による『エロシェンコ像』(1920年)
ペンネーム愛羅先珂(中国名)
誕生1890年1月12日
ロシア帝国
(現・ ロシアクルスク州スタールイ・オスコル、オブホーフカ)
死没 (1952-12-23) 1952年12月23日(62歳没)
ソビエト連邦
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国、クルスク州、スタールイ・オスコル、オブホーフカ
職業作家言語学者教育者
言語エスペラント語ロシア語英語ドイツ語日本語中国語ビルマ語トルクメン語ポーランド語
民族 ロシア人
最終学歴東京盲学校
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エロシェンコ(ハルビンにて、1921年).mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル 文学

ヴァスィリー・ヤコヴレヴィチ・エロシェンコ(ロシア語:Василий Яковлевич Ерошенко;ラテン翻字例 Vasiliy Yakovlevich Eroshenko、1890年1月12日 - 1952年12月23日)は、エスペランティスト作家多言語話者言語学者教育者
概要

1890年に、現在のロシア連邦クルスク州オブホーフカで生まれた。エロシェンコは4歳の時に麻疹により視力が低下したが、宗教に盲信的な祖母のために教会へだけ連れていかれ、医療処置を受けられなかったことで同年に失明してしまった。麻疹以前は健康で陽気な少年から性格が変わってしまったことを心配した父親から9歳の時にモスクワ盲学校に入れさせられた。ただし、当時の盲学校では視覚障害者への扱いは監禁生活であった[1]。15歳のころからエスペラントを学び、1908年から1910年の間にエスペランティストになったと推定される。盲学校卒業後、自宅に戻った後は、盲人オーケストラで働いた[1]1912年にはイギリスの盲学校(王立盲人師範学校)へ入学した。訪英が最初の国外への旅となった。しかし、無頼(ならず者行為)を繰り返したことから追放処分となった[1]
初訪日時代

在英時代に日本では視覚障害者がマッサージ職(あんま)を得ていることにより、自立出来ているとの噂を聞いて、憧れて日本語も勉強していた[1]。そのため、1914年に初来日した。エロシェンコは、同年5月11日に東京盲学校(現在の筑波大学附属視覚特別支援学校)を訪ね、按摩術とマッサージ研究のための入学を許可され、学んだ[1]

東京盲学校の生徒は、年齢がばらばらではあったが、当時24歳であったエロシェンコは他よりも年輩で、体格も堂々たる偉丈夫であった。日本語が上手で、生徒と按摩の練習をしたり、話しあったり、相撲で遊ぶこともあった。盲学校の生徒を対象に、エスペラントの講習会を何回も開いた。熱心に学んだ人たちに、鳥居篤治郎平方龍男、新津吉久、斎藤武弥・百合夫妻、三谷復二郎、熊谷鉄太郎今関秀雄らがいる。また、これらの人々に、バハイ教の教義をも教えていた。のちに外国の盲人組織とも連携して日本盲人会連合会長として活躍する鳥居篤治郎の仕事も、このエスペラント学習に負うところが大きい。通常授業の前に小川源助に按摩術を習い、他の生徒とともに練習した。校内で他の生徒と同格での講演・ギター演奏・バイオリン演奏をすることもあった。1916年5月6日に築地盲人技術学校で開かれた中央盲青年会で講演をしたのは、小森(技術学校教師)・平方龍男・エロシェンコ・高木正年・立花盲人会長・斎藤武弥であった。当時の盲人会の重鎮と並んで講演していることからも、エロシェンコの当時の立場が察せられる[2]。戦前期の日本ではしばしば「盲詩人エロシェンコ」と称された。エロシェンコの日本での著作はほとんどが童話であり、詩は少ないが、これについて藤井省三は、金髪、白い肌、ヨーロッパ人流のアクセントを残す日本語などが詩人らしさを当時の人に想起させたとしている[3]

上述のように、「日本では視覚障害者がマッサージ(あんま)をやって立派に自立しているそうだ」と聞いて、日本への旅を決心した。両親は、「この子には好きなことをさせておくよりほかない」と思ったらしく、あっさり承諾したという。エロシェンコは、モスクワのエスペラント協会に、日本のエスペランティストを紹介してくれるように頼んだ。日本では、1906年に第1回のエスペラント大会も開かれ、協会も結成されていたが、思うように発展せず、このころは会長はなしで副会長に中央気象台長の中村精男博士がなっていた。エロシェンコは、シベリア鉄道を使い、1か月近くかかってやっと中村博士を訪ねた。気象台には、ヨーロッパ留学中にエスペラントを習い帰国したばかりという人など、2?3人のエスペランティストがいて、エロシェンコの面倒をみることになった。1916(大正5)年には、日本から東南・南アジアに渡った[1]日本語もよくできたので、日本語の児童文学の作品を著した。中村屋秋田雨雀江口渙神近市子ら多くの文化人と交流し、その一人だった洋画家中村彝は「エロシェンコ氏の像」を描いている。初訪日期間に、中村屋のおかみで創業者相馬黒光と知り合って以降は、気に入られたことで衣食住の面倒を見てもらうようになった。彼は恩義のある中村屋に母国仕込みのボルシチのレシピを教えていた。そのため、後述の国外追放後である1927年に中村屋が喫茶部開店した際にはボルシチをメニューに盛り込まれ、店員の制服には彼の着用したルバシカが採用されている。1933年にはピロシキを発売した[1]。 
東南・南アジア時代

シャム(現在のタイ王国)に渡り、その地に盲学校を設立した。しかし、シャムでは盲学校が必要とされていないと感じる。ビルマ(現在のミャンマー)へ行き、モルメイン(現・モーラミャイン)という町でしばらく盲学校の教師をする。さらに英領インドに渡ったが、ロシア革命の影響でロシア人は厳しく扱われ、ロシアのボルシェヴィキとして国外追放された。
再来日以降

1919年の夏に英領インドから上海を経由して再び日本へと逃がれ、中村屋を再度訪ねた[1]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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