ワシントン・オールストン
Washington Allston
自画像
誕生日1779年11月5日
出生地 サウスカロライナ州ジョージタウンの近く
死没年1843年7月9日
死没地 ケンブリッジ (マサチューセッツ州)
影響を与えた
芸術家サミュエル・モールス
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ワシントン・オールストン(英: Washington Allston ARA、1779年11月5日 ? 1843年7月9日)はアメリカ合衆国の画家である。風景画家としての評価が高い。 アメリカ独立戦争(1775年-1783年)の戦中、1779年にサウスカロライナのワカマー川河畔の農園で生まれた。父親のウィリアム・オールストンは独立戦争の軍人で、息子に植民地軍総司令官のジョージ・ワシントンから名前をもらってワシントンと名付けた[1]。父親が1781年、カウペンスの戦いのすぐ後に死去[2]すると、母親は後に裕福な商人と再婚した[3]。 1800年にハーバード・カレッジを卒業後、しばらくチャールストンで過ごしたオールストンは1801年5月、イギリスに渡った[3]。9月にロンドンで当時ベンジャミン・ウエスト(ペンシルベニア植民地出身)が会長を務めていたロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの美術学校に入学した[4]。 1803年から1808年にわたりパリやイタリアの美術館を見て回ると、ローマで作家のワシントン・アーヴィングやサミュエル・テイラー・コールリッジと知り合い友人となった[5]。1809年に有名な牧師で思想家のウィリアム・エラリー・チャニングの妹アン・チャニングと結婚した[3] 。サミュエル・モールスの絵画の才能を見出し、1811年にヨーロッパに招いて指導した。西ヨーロッパを旅した後、ロンドンで活動し画家としての評価を得た。 著述家としても活動し、1813年にロンドンで出版した詩集を、これはボストンでも出版された[6]。1815年に妻を亡くしたこともあって1818年にアメリカに帰国し、マサチューセッツ州のケンブリッジに住むと[7]、1826年にアメリカ芸術科学アカデミーの会員に選ばれた[7]。 甥にあたるジョージ・ホワイティング・フラッグ(1816年-1897年)とジャレッド・ブラッドリー・フラッグ(1820年?1899年)に絵を教えた。 1827年にアメリカ初の個展をボストン・アシニアムで開くと12点の作品を展示した[8]。1830年に裁判官フランシス・デイナ(Francis Dana)の娘で最初の妻の従妹のシャルロットと再婚した[9]。 オールストンの風景画はその色使いからルネサンス期の画家、ティツィアーノ・ヴェチェッリオに擬えて(なぞらえて)「アメリカのティツィアーノ」と評せられることもあり、その後のアメリカの風景画家に影響を与えたとされる[10]。
略歴
作品
Rising of a Thunderstorm at Sea(1804年)
月明りの風景(1809年)
地中海の海岸の風景(1811年)
貧乏な作家と裕福な出版人(1811年)
義兄ウィリアム・エラリー・チャニングの肖像(1811年)
義母ルーシー・チャニングの肖像(1811年)
サミュエル・テイラー・コールリッジ(1814年)