ワシリー・カンディンスキー
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ワシリー・カンディンスキー
Wassily Kandinsky
1913年頃かそれ以前に撮影
本名Wassily Wassilyevich Kandinsky
ロシア語: Васи?лий Васи?льевич Канди?нский
誕生日 (1866-12-04) 1866年12月4日
出生地 ロシア帝国モスクワ
死没年1944年12月13日(1944-12-13)(78歳)
死没地 フランス共和国ヌイイ=シュル=セーヌ
教育ミュンヘン美術院
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ワシリー・カンディンスキー(Wassily Kandinsky、Vassily Kandinsky[1]、本名:Wassily Wassilyevich Kandinsky(ロシア語: Васи?лий Васи?льевич Канди?нский)、1866年12月4日ユリウス暦)/12月16日グレゴリオ暦) - 1944年12月13日)は、ロシア出身の画家であり、美術理論家であった。一般に、抽象絵画の創始者とされる。ドイツ及びフランスでも活躍し、のちに両国の国籍を取得した。

画家のガブリエレ・ミュンターのパートナーとしても知られている。
略歴

彼はモスクワに生まれ子供時代をオデッサで過ごした。1886年から1892年まで、モスクワ大学で法律と政治経済を学ぶ。

1896年ミュンヘンで絵の勉強を始め、象徴主義の大家フランツ・フォン・シュトゥックに師事する。

1902年ベルリンの分離派展に出品。

1904年パリのサロン・ドートンヌにも出品している。

1909年新ミュンヘン美術家協会会長となるが、1911年にはフランツ・マルクとともに脱退して「青騎士」(デア・ブラウエ・ライター)を結成した[2]

1910年、最初の抽象画を手掛け、絵画表現の歴史の新たな一歩を記している。代表作の『コンポジション』シリーズはこの最初のドイツ滞在期に制作された。当時の制作姿勢について、カンディンスキーは「対象に縛られない、純絵画の本質としての、独立したインテンジイフな生命を齎すような画面を作ろうとするのが自分の願望である」[3]と説明する(澤木四方吉「カンディンスキイ」『三田文学』、1914年)。

1918年革命後、モスクワに戻った。当時のソ連では前衛芸術ウラジーミル・レーニンによって「革命的」として認められており、カンディンスキーは政治委員などを務めた。しかし、ヨシフ・スターリンが台頭するにつれ前衛芸術が軽視されるようになり、スターリンが共産党書記長に就く直前の1921年に再びモスクワを離れてドイツへと向かった。

1922年バウハウスで教官を務め、1933年ナチス・ドイツによってバウハウス自体が閉鎖されるまで勤務した。

1941年、フランスがナチスによって占領されたのにもかかわらず、彼はアメリカへの移住を拒否し続け、パリ郊外に位置するヌイイ=シュル=セーヌでその生涯を閉じた。なお、1928年にはドイツ国籍、1939年にはフランス国籍を取得している。
活動・評価

ピエト・モンドリアンカジミール・マレーヴィチとともに彼は抽象絵画の先駆者として位置づけられている。また、多くの著作を残しており、美術理論家としても著名である。

ナチス占領下のフランスでは、作品の展示を禁止されたり、彼について論じることを禁止されるなど、不遇のまま亡くなった。1967年に未亡人のニーナが、晩年の彼を支えた事でレジオンドヌール勲章を受け、完全に復権した。
主要作品

詳細はカンディンスキーの絵画一覧(英語版)を参照。

青騎士 (1903)

馬上の二人 (1906-1907)

Improvisation avec Formes froides (1914)

Peinture non objective (1915)

Moscou, La Place Rouge (1916)

無題 Sans titre

Impression III (1911)

Romantic Landscape (1911)

A Riding Amazon (1911)

Gorge Improvisation (1914)

塔のある風景(1909)

コンポジション VII

コンポジション VIII (1923)


『即興 渓谷』(1914年、ミュンヘンレンバッハハウス美術館蔵)

『即興 27』(1912年、メトロポリタン美術館蔵)

主な著作

『抽象芸術論―芸術における精神的なもの』
西田秀穂訳、美術出版社。改訂新版は著作集 全4巻、2000年

『点と線から面へ』 宮島久雄訳、<バウハウス叢書9>中央公論美術出版、1995年、新版2020年。ちくま学芸文庫、2017年本書は1922年6月から、バウハウスで行われた講義の一部。

共著・編書

カンディンスキー/フランツ・マルク編『青騎士』 岡田素之、相澤正己訳、
白水社、2007年

シェーンベルク、カンディンスキー『出会い 書簡・写真・絵画・記録』J.ハール=コッホ編、土肥美夫訳、みすず書房、1985年収録されているカンディンスキーのテキストは 『舞台コンポジションについて』、『黄色い響き』舞台コンポジション、『画像』、『アルノルト・シェーンベルクの絵画作品 1908 - 1921』、『シェーンベルク『和声学』への注釈』

関連文献

『カンディンスキー 美の20世紀7』やってるかい ミハイル・ゲールマン解説/
山梨俊夫監訳、籾山昌夫訳、二玄社、2007年

『カンディンスキー全油彩総目録』(全2巻) 西田秀穂・有川治男訳、岩波書店、1987年、1989年日本語に訳されたカタログ・レゾネと。生涯にわたって発表された作品を網羅し、主に学術的な研究に利用される文献である。

西田秀穂 『カンディンスキー研究』 美術出版社、1993年

ニーナ・カンディンスキー『カンディンスキーとわたし』 土肥美夫・田部淑子訳、みすず書房、1980年 - 妻ニーナによる回想録。

シクステン・リングボム 『カンディンスキー 抽象絵画と神秘思想』 松本透訳 <ヴァールブルクコレクション>平凡社、1995年

小林奈央子 『青騎士の誕生 カンディンスキーの舞台美術』 早稲田大学出版部、2011年

澤木四方吉「カンディンスキイ」『美術の都』岩波書店、1998年

脚注^ ヴァシリー・カンディンスキー、カディンスキー、「カンジンスキイ」と書くほうがロシア語の発音に近いが、この表記は日本では一般的ではない。
^ “ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説”. コトバンク. 2018年5月2日閲覧。
^ “ ⇒澤木四方吉|カンディンスキー|ARCHIVE”. ARCHIVE. 2023年12月15日閲覧。

関連項目.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキメディア・コモンズには、ワシリー・カンディンスキーに関連するカテゴリがあります。


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