ワガノワ・バレエ・アカデミー(英語: Vaganova Academy of Russian Ballet、ロシア語: Академия русского балета имени А. Я. Вагановой)は、ロシアのサンクトペテルブルクにあるクラシック・バレエ学校である。ワガノワ・バレエ学校とも呼ばれる。女帝アンナの治世であった1738年に設立され、帝政ロシアでは帝室バレエ学校と呼ばれていた。ロシア革命によりソ連が成立すると一時閉鎖されたが後にレニングラード州立振付学校として再編された。その後、1957年に1920年代後半から同校で教授法の確立に尽力したアグリッピナ・ワガノワを記念して、校名にその名が冠せられるようになった。世界の一線級バレエ学校の中には、教授法にワガノワ・メソッドの要素を取り入れているところも多い。
ワガノワ・バレエ・アカデミーは、世界でも屈指のバレエ団の1つであるマリインスキー・バレエの付属校でもある。卒業生は、ボリショイ・バレエやロイヤル・バレエ、アメリカン・バレエ・シアター、ミハイロフスキー・バレエなど、世界中のバレエ団やダンス・カンパニーに所属している。 1738年5月4日、女帝アンナの勅命により、フランス人バレエ・マスターのジャン=バティスト・ランデを監督に迎えて帝室舞踊学校として設立された。一期生は男子・女子それぞれ12名で、サンクトペテルブルクの冬宮殿の空き部屋を用いて指導が行われた。帝室舞踊学校の設立はロシア初の職業バレエ団を立ち上げることを目的としており、後に卒業生らによりロシア帝室バレエ団が創設されて、本校も帝室バレエ学校と呼ばれるようになった。20世紀初頭のロッシ通り2番地 フランツ・ヒルファーディンクやジョバンニ・カンジャンニといった初期の教員のほぼ全員が西欧出身で、イヴァン・ヴァルベルグが最初のロシア人教師であった。バレエがヨーロッパで隆盛した後、オーギュスト・ブルノンヴィルの教え子であるクリスティアン・ヨハンソンが伝えたブルノンヴィル・メソッドや、エンリコ・チェケッティ、ピエリーナ・レニャーニ、カルロッタ・ブリアンツァによるイタリア式指導法など、さまざまなバレエ教師や指導法の影響を受けながら発展し、19世紀にはシャルル・ディドロ、ジュール・ペロー、アルテュール・サン=レオン、レフ・イワノフ、マリウス・プティパやミハイル・フォーキンといったダンサーやバレエ・マスターが指導した。 1836年以来、サンクトペテルブルクのロッシ通り2番地に校舎を構えている。ロシア革命後はソビエト政府により帝室バレエ学校は閉鎖されたが、後にレニングラード州立振付学校として再開された。また、ロシア帝室バレエ団も解散され、ソビエト・バレエとして再編された。ソビエト・バレエは1938年に暗殺されたセルゲイ・キーロフを記念してキーロフ・バレエに改称され、ソ連崩壊後にはマリインスキー・バレエとなったが、西欧のバレエファンの間では旧ソ連時代のキーロフ・バレエの名が広く浸透しており、国際ツアーでは未だにキーロフ・バレエの名を用いている。 アグリッピナ・ワガノワは、現代ロシアのバレエに最も顕著な発展をもたらした人物とされる。ワガノワは1897年に帝室バレエ学校を卒業して帝室バレエ団に入団したが、当時はアンナ・パヴロワやマチルダ・クシェシンスカヤが人気を集めており舞台に恵まれなかったこともあってバレエ教師として身を立てることを決意してロシア革命直前の1916年にダンサーを引退した。革命により帝室バレエ学校が閉鎖されてしまったため、ワガノワは私立のロシア・バレエ学校で教職に就き、1920年にレニングラード州立振付学校として復活した母校に戻った。ワガノワはバレエ教師として大いに名を挙げ、自らが確立した教授法をまとめた著書「クラシックバレエの基礎」が特に有名である。 ワガノワはマリナ・セミョーノワやガリーナ・ウラノワ、イリーナ・コルパコワ、ナタリア・ドゥジンスカヤといったバレエ史に名を残す数々の名ダンサーを育て上げ、その功績が認められてその死から6年後の1957年に校名にワガノワの名が冠せられることになった。
歴史
ワガノワ正面玄関