ワイン・ガードナー
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ワインガルトナー」とは異なります。

ワイン・ガードナー
1989年日本GP
グランプリでの経歴
国籍 オーストラリア
活動期間1983 - 1992
チームホンダ
レース数100
チャンピオン500cc - 1987
優勝回数18
表彰台回数51
通算獲得ポイント1074
ポールポジション回数19
ファステストラップ回数19
初グランプリ1983 500cc ダッチTT
初勝利1986 500cc スペイン
最終勝利1992 500cc イギリス
最終グランプリ1992 500cc 南アフリカ
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ワイン・ミッシェル・ガードナー(Wayne Michael Gardner、1959年10月11日 - )は、オーストラリアニューサウスウェールズ州ウロンゴン出身の元オートバイロードレーサーであり元四輪レーサー。ロードレース世界選手権500ccクラスの1987年チャンピオン。エディ・ローソンウェイン・レイニーケビン・シュワンツとともに「四強」と称される。

パワースライドを駆使した豪快なライディングとロスマンズ・ブルーのマシンカラーから「ブルー・サンダー」の異名を取った。また鈴鹿8時間耐久ロードレースで歴代2位の4勝を挙げ、「8耐男」とも呼ばれた。二輪引退後は四輪で活躍し、全日本GT選手権にもフル参戦した。
経歴
デビュー

17歳のときに、中古のTZを購入するために父親が経営する会社で働いて購入資金を稼ぐ[1]

1980年、オーストラリア国内レースで走っていた際、日本のモリワキの代表である森脇護に才能を見いだされる。1981年にモリワキからイギリス国内のTT-F1に参戦するとともに、3月にはAMAのデイトナスーパーバイククラスに出場しZ1R-IIで4位に入賞する。6月には全日本選手権の鈴鹿200kmレース(NR500が優勝した500ccクラスとは別クラス)で優勝した。この年の鈴鹿8時間耐久オートバイレース(鈴鹿8耐)でモリワキ・モンスターに乗り驚異的な予選タイムを記録し、決勝でも60周回目に首位に立つがその周回のスプーンカーブで転倒しリタイヤとなる。その後、日本やイギリスなどのレースで活躍し、実力をアピールしていく。

1983年、第8戦オランダGPでロードレース世界選手権(WGP)にデビューするが、このレースで衝撃的なアクシデントに遭遇してしまう。前年度チャンピオンのフランコ・ウンチーニがコース中央で転倒。マシンから投げ出されたウンチーニはとっさにコース外に逃れようとしたが、同じ方向に回避したガードナー車の前輪がウンチーニのヘルメットを直撃。ウンチーニはヘルメットが脱げた状態で地面に叩き付けられ、意識不明で病院に搬送された。同時にガードナーも転倒し世界GPデビュー戦で負傷リタイアという結果になってしまった。

ガードナーとウンチーニの接触は偶然(レーシングアクシデント)であり、ガードナーに非は無いと見る意見が多かったが、「フランコが死んだら私はレースを辞める」と泣きながら関係者に語るほど動揺したという。また事故直後にウンチーニを病院へ見舞った際、事情を把握していなかったウンチーニが所属していたガリーナ・スズキチームのチーム監督であるロベルト・ガリーナに、「おまえの責任だ」と非難されたのもショックだったと語っている。幸いウンチーニは回復して後にレースに復帰。ウンチーニ本人は事故の原因と経緯を理解しており、ガードナーを咎めることはなかった。

1984年は市販のホンダRS500を駆り、プライベーターとしてスポット参戦。ワークスのホンダ・NSR500ヤマハYZR500に比べ戦闘力が劣るマシンながら、たびたび並み居る強豪を押しのけポイント圏内に食い込み、3位表彰台も獲得。シーズンランキング7位を獲得し関係者の大きな注目を集める。
ホンダのエースへ

1985年、前年の実績を評価されたガードナーはUKホンダに起用され、3気筒のNS500に乗りセミワークスライダーとして本格参戦。優勝争いには届かないものの、フランスGPでは4気筒のNSR500に乗るフレディ・スペンサーと互角にバトルを展開するなど健闘し、ランキング4位を得る。

この年の鈴鹿8耐では優勝大本命のケニー・ロバーツ平忠彦組が先行する中、ガードナーは終盤の2時間近くをライダー交代をせず猛追。ロバーツ・平組のリタイアで劇的な初勝利を達成する。連続走行のためチェッカー後はマシンから降りられないほど消耗していたという。以後、ガードナーは鈴鹿8耐においてホンダのエースとして活躍することになる。

1986年はワークスのロスマンズ・ホンダチームに加入し、前年度チャンピオンのスペンサーと共にNSR500で参戦。開幕戦スペインGPでさっそく初勝利を挙げるが、これはトップ独走中のスペンサーが突如右手首の怪我でリタイアしたためであった。結局、スペンサーはこの故障で欠場を重ね、ガードナーは突然「代役エース」に昇格して、孤軍奮闘でワークスホンダの威信を背負って立つことになる。NSR500はフレディー・スペシャルとも呼ばれる扱い難いマシンだったが、これをねじ伏せヤマハのエースエディ・ローソンと激しいチャンピオン争いを展開。計3勝でランキング2位を獲得し、着実に王座への足がかりを固めた。

鈴鹿8耐にはフランス人ライダーのドミニク・サロンとコンビを組んで出場。予選でポールポジションを獲得し、決勝でもホールショットを奪うと一度も首位の座を明け渡すことなく独走で完全優勝を果たし連覇を達成した。
チャンピオンから引退へNSR500を駆るガードナー(1992年日本GP)

1986年のシーズンオフ、名エンジニアジェレミー・バージェスらとマシン開発の主導権をとる。体制充実して臨んだ1987年は、不調のローソンに代わり台頭したラッキーストライク・ヤマハのランディ・マモラと激しいポイント争いを展開。終始安定した強さでシーズン7勝を挙げ、第14戦ブラジルGPでオーストラリア人初のWGP500ccクラスチャンピオンに輝いた。

ゼッケン1番をつけて臨んだ1988年はマシン開発が遅れ、4勝を挙げるがローソンにタイトル奪還を許す。また、ケビン・シュワンツウェイン・レイニーら新世代の台頭にも直面した。シーズン後には宿敵ローソンがホンダへ電撃移籍を表明し、同メーカー内で真価を問われることとなる。

1989年は初開催の地元オーストラリアGPを制したものの、次戦アメリカGPで右足骨折の重傷を負い、早々とタイトル争いから脱落する。以降、毎年のようにケガで満足に戦えない状態が続き、ホンダのエースの座も同郷の後輩マイケル・ドゥーハンに譲ることになる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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