ワイアンドット族
[Wikipedia|▼Menu]

ワイアンドット族(ワイアンドットぞく、: Wyandot)、ウェンダット族(ウェンダットぞく、: Wendat)、またはヒューロン族(ヒューロンぞく、: Huron)[1][注釈 1]は北アメリカの先住民族。彼らは伝統的にイロコイ語族のワイアンドット語を話した。1720年代に初めてヨーロッパ人の探検家・交易商人と接触したときの部族の人口は3万人以上[1]と考えられている。上の地図のうち、青色で着色されているのがヒューロン湖のジョージア湾。ここでヒューロン族はフランス人と出会った。ヒューロン族の領域は、セントローレンス川源流部よりやや下流、オンタリオ湖北岸のうちの3/4から、ニュートラル族の領域との境まで広がっていた。さらに、1649年にビーバー戦争でニュートラル族を倒し、ジョージア湾周辺を包むように領域が広がった。ジョージア湾周辺は彼らの領域の中心地となった。

15世紀まで、異文化に触れる前のワイアンドット族は現在のオンタリオ湖の北岸に暮らしていた。その後1615年に初めてフランス人の探検家サミュエル・ド・シャンプランに出会った。

現代のワイアンドット族は、17世紀後半にウェンダット(ヒューロン)連合、タイオノンタッティ族(ピトゥン、またはタバコ族)の残存者と合流したことで出現した。彼らはカナダのオンタリオ州南部、ジョージア湾周辺で暮らしていた。1634年以降、疫病の蔓延によって人口が激減し、1649年にニューヨーク州を拠点としていたイロコイ連邦との戦いに敗れ、散り散りになった。

今日、ワイアンドット族はファースト・ネーションとして、カナダのケベック州に居留地がある。アメリカ合衆国にも3つの主要な村落があり、そのうち2つは自立して統治されており、連邦政府にも認知されている[2]。それぞれのグループは異なった発展を遂げてきたために、彼らは異なるワイアンドット語を話す。
歴史
1650年までワイアンドット族の集団(1880年、ケベックシティ)

初期の学説では、ワイアンドット族はセントローレンス川の渓谷に起源があり、モントリオール周辺に存在していたという者もいれば、セントローレンス・イロコイ族に関係があるという者もいた。近年の調査により、ワイアンドット族とセントローレンス・イロコイ族には歴史的に繋がりがあったことが言語学的、考古学的に裏付けられた[3]

1975年と1978年に、考古学者が15世紀のワイアンドット族の大きな村落を発掘した。現在はドレーパーサイトと呼ばれ、オンタリオ湖近くのピカリング市にある。2003年にはそこから5q離れたウィッチチャーチ=スタウフビルでより大きな村落が発見され、マントルサイトと呼ばれている。いずれも周りを先のとがった柵で囲まれている。マントルサイトには70以上の家族が暮らすロングハウスがあった[注釈 2]

17世紀初め、彼らは「ウェンダット」と自称していた。その意味するところは、「半島の住人」や「島民」である。ウェンダットの歴史的な領域はジョージア湾シムコー湖によって、3つに区切られている[4]。初期のフランス人探検家は、彼ら先住民をヒューロン、またはフレンチ・ヒューロン、hure(イノシシ頭)などと呼んだ。言い伝えによると、彼らフランス人はウェンダットの戦士のごわごわした髪型がイノシシに似ていると考えたようである[4]。しかし、このネガティブな語源はフランス人探検家や毛皮交易商人が受けた「良いイロコイ族」という姿勢には矛盾している。それに代わる語源は、アルゴンキン語のronon(「国」)、またはIrri-ronon (「エリー湖」、または「猫の国」)である。フランス語ではHirri-ronon のように発音され、最終的にHirr-onと縮まり、現在の形であるHuronと綴られるようになった。他に語源として可能性があるのは、アルゴンキン語のka-ron(真っ直ぐな海岸)、tu-ron(曲がった海岸)などが考えられる[5][6]

ウェンダットは単一の部族ではなく、4つまたはそれ以上の部族の連合で、それぞれの言語には相互理解可能性があった[7]。伝承によれば、ウェンダット(ヒューロン)連合はAttignawantans(熊の人々)とAttigneenongnahacs(紐の人々)が主導し、15世紀に連合を形成した[7]。1590年頃にはArendarhonons(岩の人々)、1610年頃にはTahontaenrats(鹿の人々)が加わった[7]

オンタリオ州エルムヴェール近くにあったOssossaneには、ウェンダットの最も大きな集落と連合の本拠地があった。彼らは伝統的な領地をWendakeと呼んでいた。

連合と密接な関係があったタイオノンタッティ族[8]は、フランス人からはピトゥンと呼ばれていた。ピトゥンはフランス語でタバコを意味し、彼らがそれを栽培していたことから名付けられた。かれらははるか南側で生活しており、Deer(鹿)とWolves(狼)の2つのグループに分かれていた[9]。彼らが後にワイアンドットの中核部分を成すことを考えると、彼らもまたウェンダットと自称していたかもしれない[10]

結核はヒューロン族の風土病であった。空気がこもり、煙の多いロングハウスでの住環境はそれを悪化させた[11]。それでも、ヒューロン族の人々は概して健康であった。イエズス会はヒューロン族は自然治癒力を効果的に用いていたと記し[12]、「我々よりも健康だ」と評した[13]
ヨーロッパ人との接触、そして分散ヒューロン族の国における長い旅、ガブリエル・サガール画、1632年


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:47 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef