(国旗)
ローワー・カナダの位置
公用語フランス語、英語
首都ケベック・シティー
君主
1791年 - 1820年ジョージ3世
1820年 - 1830年ジョージ4世
1830年 - 1837年ウィリアム4世
1837年 - 1841年ヴィクトリア
面積
1839年534,185km²
人口
1839年700,000人
変遷
設立1791年12月26日
連合1841年2月10日
通貨カナダ・ポンド
現在 カナダ
ローワー・カナダ(英:Lower Canada)は、現在のカナダ、ケベック州にあったイギリスの植民地である。公式には1791年から1841年まで存在し、領域は大まかに現在のケベック州南部とニューファンドランド・ラブラドール州のラブラドール地方を合わせたものだった。ローワーという名前は緯度ではなく海抜からきており、アッパー・カナダからはセントローレンス川の下流 (lower) に位置した。緯度に関しては、アッパー・カナダの方がローワー・カナダより南にあった。東はセントローレンス湾と大西洋に面している。 ローワー・カナダは、1790年にイギリスの議会を通過した植民地統治法
歴史
ローワー・カナダは、以前のフランス植民地ヌーベルフランスの一部であり、七年戦争(またはフレンチ・インディアン戦争)でイギリスが勝利した結果としてイギリスに割譲されたもので、フランス系カナダ人が多く住んでいた。イギリスに割譲されたヌーベルフランスの他の地域は、ノバスコシア、ニューブランズウィック、およびプリンス・エドワード・アイランドの各植民地となった。
米英戦争(1812年 - 1815年)の時、ローワー・カナダもセントローレンス川上流でアメリカ軍の侵略を受けたが、跳ね返すことに成功した。 ローワー・カナダでもアッパー・カナダと同様に自治政府が作られていたが、イギリス政府の統治に対する不満が募り政治的に不安定となって反乱につながった。アッパー・カナダとの違いはフランス系カナダ人が圧倒的に多いという事情があり、フランスの市民法とカトリックの信仰を続けることができたことだった。少数派である英語を話す市民に牛耳られ、しかもイギリス本国の意向に沿うことが本流であった政府に対し、1837年に「責任ある政府」を求める愛国者の武装蜂起が起こり、時を同じくしたアッパー・カナダの反乱が失敗した後も、1838年まで反抗が繰り返された。この反乱がイギリス軍と王党派志願兵に潰された後、植民地統治法は棚上げにされ、イギリス本国で植民地を管轄するローワー・カナダ特別委員会が指名された。 ローワー・カナダとアッパー・カナダの政体は1841年に廃止され、1840年7月23日に制定された連合法が発効された。その結果、ローワー・カナダとアッパー・カナダはカナダ植民地
反乱
憲法1791年制定のローワー・カナダ憲法体系
ローワー・カナダは以前のケベック植民地時代にあったフランスとイギリスの制度を混合した憲法を引き継いでいた。これは、カナダ連合でも、また1867年の英領北アメリカ法でカナダ連邦が造られた時、カナダ連合は再び元の境界で分けられオンタリオ州とケベック州となったが、新しいケベック州でも引き継がれることになった。
* 現在は英連邦王国 · 現在はイギリス連邦の一員ヨーロッパ
12世紀
1337-1453 フランス
18世紀
1708?1757 メノルカ島
1713- .mw-parser-output span.smallcaps{font-variant:small-caps}.mw-parser-output span.smallcaps-smaller{font-size:85%}ジブラルタル
1763?1782 メノルカ島
1798?1802 メノルカ島
19世紀
1800?1964 マルタ直轄植民地