ローワー・イースト・サイド
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Lower East Side Historic District
アメリカ合衆国国家歴史登録財
アメリカ合衆国国定歴史地区

ロウアー・イースト・サイドのテネメント(長屋)ビル
ロウアー・マンハッタンにおけるこの地区の位置(青色)
所在地おおよそイースト・ハウストン・ストリート、エセックス・ストリート (en)、キャナル・ストリート、エルドリッジ・ストリート (Eldridge)、サウス・ストリート、およびグランド・ストリート (en)、バワリーおよびイースト・ブロードウェイ (en) に囲まれたエリア(当初)
おおよそディヴィジョン・ストリート (en)、ラトガース・ストリート (Rutgers)、マディソン・ストリート (en)、ヘンリー・ストリート (en) およびグランド・ストリート沿い(拡大)
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯40度43分02秒 西経73度59分23秒 / 北緯40.7172度 西経73.9897度 / 40.7172; -73.9897
NRHP登録番号00001015(当初)
04000297(拡大)
NRHP指定日2000年9月7日(当初)
2006年5月2日(拡大)[1]

ロウアー・イースト・サイド (Lower East Side) は、ニューヨーク市マンハッタン地区である。LESという略称が使われることもある。おおよその範囲は、イーストサイド・マンハッタンの南側にあたり、東西にはバワリーからイースト川、南北にはキャナル・ストリートからハウストン・ストリートに囲まれたエリアである。

伝統的にこの地区は移民労働者階級が住み着いていたが、2000年代半ば頃から急速に高級化 (ジェントリフィケーション) が進み、このエリアは合衆国歴史保護ナショナル・トラスト(英語版)によってアメリカ絶滅危機史跡(英語版)に登録されることとなった[2][3]。現在では、この地区は高級ブティックや流行のレストランが集まるエリアとなった。特に、クリントン・ストリート (Clinton Street) はレストラン・ロウ (restaurant row) となっている。.mw-parser-output .toclimit-2 .toclevel-1 ul,.mw-parser-output .toclimit-3 .toclevel-2 ul,.mw-parser-output .toclimit-4 .toclevel-3 ul,.mw-parser-output .toclimit-5 .toclevel-4 ul,.mw-parser-output .toclimit-6 .toclevel-5 ul,.mw-parser-output .toclimit-7 .toclevel-6 ul{display:none}
境界オーチャード・ストリートとリヴィングトン・ストリートの交差点(2005年)

ロウアー・イースト・サイドのおおよその境界は、西端はバワリー、北端はイースト・ハウストン・ストリート、東端はFDRドライブ、そして南端はキャナル・ストリートである。グランド・ストリート(英語版)以南では、その西端はバワリーより東に逸れ、おおよそエセックス・ストリート(英語版)となる。

この地区は、その南西端(グランド・ストリートあたり)でチャイナタウンと、西端でノリータと、そして北端でイースト・ヴィレッジと隣接している[4][5]

歴史的には、"ロウアー・イースト・サイド"は東西にイースト川からおおよそブロードウェイまでと、南北におおよそマンハッタン橋およびキャナル・ストリートから14丁目までに囲まれたエリアを指していた。このようにかつては、現在のイースト・ヴィレッジアルファベット・シティチャイナタウンバワリーリトル・イタリー、そしてノリータまで、ロウアー・イースト・サイドに含まれていた。現在でも、イースト・ヴィレッジの一部であるロウイーサイダは、ラティーノの発音で"ロウアー・イースト・サイド"のことである。アベニューCはロウイーサイダの中心であり、毎夏にはロウイーサイダ・フェスティバルが開催される[6]

行政区としては、この地区はニューヨーク州第8(英語版)、第12(英語版)そして第14(英語版)下院選挙区、ニューヨーク州議会第64地区、ニューヨーク州上院議会(英語版)第26地区、そしてニューヨーク市議会第1および第2地区に属する。
歴史
デランシー・ファーム

アメリカ独立戦争以前のニューヨーク市(バワリー)から伸びるボストン郵便道路(英語版)の東にあったジェームズ・デランシー(英語版)の農場(デランシー・ファーム)の名残は現在もデランシー・ストリート(英語版)およびオーチャード・ストリート(英語版)の名前に残されている。現在のマンハッタンの地図上では、デランシー・ファームは[注釈 1]ディヴィジョン・ストリートからハウストン・ストリートの間の通りのグリッド状(碁盤目状)の区画にあたる[7]。市街地の拡大に伴い、1760年代にデランシーはウエスト・ファーム (West Farm) の南の通りの調査を開始した[注釈 2]。デランシー・スクエア (Delancey Square) は、現在のエルドリッジ・ストリート、エセックス・ストリート、ヘスター・ストリート、ブルーム・ストリートに囲まれる広大なエリアをカバーする計画だったが、アメリカ独立戦争後にロイヤリストのデランシー家の資産が没収された際に、破棄された。 ニューヨーク市の没収委員会 (The Commissioners of Forfeiture) は貴族階級による碁盤目状の広場の計画を破棄した。デランシーによるニューヨークをロンドンウエスト・エンドにする構想に代わり、この地区に根付くこととなる民主的な風土が確立された。
コーリアーズ・フックコーリアース・フックは、1776年のイギリスの地図では"クラウン・ポイント" (Crown Point) として描かれている。"デランシーの新しいスクエア"は建設されることはなかった。

イースト川に突き出たこのエリアは、オランダおよびイギリス統治下にはコーリアース・フック (Corlaers Hook) とも呼ばれていた。コーリアーズ・フック (Corlaer's Hook) はコーリアーの(曲がった)岬といった意味である。独立戦争中のイギリス支配下では少しの間、クラウン・ポイント (Crown Point) と呼ばれていた。この名前は、1638年当時レナペ語の名前がヨーロッパ語になまったNechtans[9]、またはNechtanc.[10]と呼ばれていたプランテーションに定住してきた、学校長Jacobus van Corlaerの名前から取られていた。コーリアーはこのプランテーションをニューヨークのビークマン一家の祖であるWilhelmus Hendrickse Beekman (1623?1707) へと売却した。彼の息子en:Gerardus Beekmanは1653年8月17日に、この土地に洗礼名を与えた。コーリアの名前を冠したこのイースト川へと突き出た土地は、300年の間、航海士たちにとって重要な目印であった。


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