Lower East Side Historic District
アメリカ合衆国国家歴史登録財
アメリカ合衆国国定歴史地区
ロウアー・イースト・サイド (Lower East Side) は、ニューヨーク市マンハッタン区の地区である。LESという略称が使われることもある。おおよその範囲は、イーストサイド・マンハッタンの南側にあたり、東西にはバワリーからイースト川、南北にはキャナル・ストリートからハウストン・ストリートに囲まれたエリアである。
伝統的にこの地区は移民や労働者階級が住み着いていたが、2000年代半ば頃から急速に高級化 (ジェントリフィケーション) が進み、このエリアは合衆国歴史保護ナショナル・トラスト(英語版)によってアメリカ絶滅危機史跡(英語版)に登録されることとなった[2][3]。現在では、この地区は高級ブティックや流行のレストランが集まるエリアとなった。特に、クリントン・ストリート (Clinton Street) はレストラン・ロウ (restaurant row) となっている。.mw-parser-output .toclimit-2 .toclevel-1 ul,.mw-parser-output .toclimit-3 .toclevel-2 ul,.mw-parser-output .toclimit-4 .toclevel-3 ul,.mw-parser-output .toclimit-5 .toclevel-4 ul,.mw-parser-output .toclimit-6 .toclevel-5 ul,.mw-parser-output .toclimit-7 .toclevel-6 ul{display:none}
境界オーチャード・ストリートとリヴィングトン・ストリートの交差点(2005年)
ロウアー・イースト・サイドのおおよその境界は、西端はバワリー、北端はイースト・ハウストン・ストリート、東端はFDRドライブ、そして南端はキャナル・ストリートである。グランド・ストリート(英語版)以南では、その西端はバワリーより東に逸れ、おおよそエセックス・ストリート(英語版)となる。
この地区は、その南西端(グランド・ストリートあたり)でチャイナタウンと、西端でノリータと、そして北端でイースト・ヴィレッジと隣接している[4][5]。
歴史的には、"ロウアー・イースト・サイド"は東西にイースト川からおおよそブロードウェイまでと、南北におおよそマンハッタン橋およびキャナル・ストリートから14丁目までに囲まれたエリアを指していた。このようにかつては、現在のイースト・ヴィレッジ、アルファベット・シティ、チャイナタウン、バワリー、リトル・イタリー、そしてノリータまで、ロウアー・イースト・サイドに含まれていた。現在でも、イースト・ヴィレッジの一部であるロウイーサイダは、ラティーノの発音で"ロウアー・イースト・サイド"のことである。アベニューCはロウイーサイダの中心であり、毎夏にはロウイーサイダ・フェスティバルが開催される[6]。
行政区としては、この地区はニューヨーク州第8(英語版)、第12(英語版)そして第14(英語版)下院選挙区、ニューヨーク州議会第64地区、ニューヨーク州上院議会(英語版)第26地区、そしてニューヨーク市議会第1および第2地区に属する。
歴史
デランシー・ファーム)の東にあったジェームズ・デランシー(英語版)の農場(デランシー・ファーム)の名残は現在もデランシー・ストリート(英語版)およびオーチャード・ストリート(英語版)の名前に残されている。現在のマンハッタンの地図上では、デランシー・ファームは[注釈 1]ディヴィジョン・ストリートからハウストン・ストリートの間の通りのグリッド状(碁盤目状)の区画にあたる[7]。市街地の拡大に伴い、1760年代にデランシーはウエスト・ファーム (West Farm) の南の通りの調査を開始した[注釈 2]。デランシー・スクエア (Delancey Square) は、現在のエルドリッジ・ストリート、エセックス・ストリート、ヘスター・ストリート、ブルーム・ストリートに囲まれる広大なエリアをカバーする計画だったが、アメリカ独立戦争後にロイヤリストのデランシー家の資産が没収された際に、破棄された。 ニューヨーク市の没収委員会 (The Commissioners of Forfeiture) は貴族階級による碁盤目状の広場の計画を破棄した。デランシーによるニューヨークをロンドンのウエスト・エンドにする構想に代わり、この地区に根付くこととなる民主的な風土が確立された。
コーリアーズ・フックコーリアース・フックは、1776年のイギリスの地図では"クラウン・ポイント" (Crown Point) として描かれている。"デランシーの新しいスクエア"は建設されることはなかった。
イースト川に突き出たこのエリアは、オランダおよびイギリス統治下にはコーリアース・フック (Corlaers Hook) とも呼ばれていた。コーリアーズ・フック (Corlaer's Hook) はコーリアーの(曲がった)岬といった意味である。独立戦争中のイギリス支配下では少しの間、クラウン・ポイント (Crown Point) と呼ばれていた。この名前は、1638年当時レナペ語の名前がヨーロッパ語になまったNechtans[9]、またはNechtanc.[10]と呼ばれていたプランテーションに定住してきた、学校長Jacobus van Corlaerの名前から取られていた。コーリアーはこのプランテーションをニューヨークのビークマン一家の祖であるWilhelmus Hendrickse Beekman (1623?1707) へと売却した。彼の息子en:Gerardus Beekmanは1653年8月17日に、この土地に洗礼名を与えた。コーリアの名前を冠したこのイースト川へと突き出た土地は、300年の間、航海士たちにとって重要な目印であった。