ローレンス・S・ロス
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ローレンス・サリバン・ロスLawrence Sullivan Ross
テキサスA&M大学に立つローレンス・サリバン・ロスの銅像
生年月日1838年9月27日
出生地アイオワ準州、ベントンズポート
没年月日1898年1月3日
死没地テキサス州ブラゾス郡
所属政党民主党
配偶者エリザベス・ティンズリー
第19代テキサス州知事
選挙区テキサス州
在任期間1887年 - 1891年
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ローレンス・サリバン・ロス(Lawrence Sullivan Ross、1838年9月27日-1898年1月3日)は、19世紀のアメリカ合衆国テキサス州知事、インディアン戦争の軍人、南北戦争の時は南軍将軍であり、テキサス農業工業大学の学長だった。

ロスの家族はロスが生まれた年にテキサス共和国に入植し、ロスの子供時代大半は辺境で過ごされた。その家族は後にテキサス州ウェーコの町を設立した。ロスは10代でベイラー大学とフロレンス・ウェズリアン大学で学んだ。

19世紀初頭のテキサスは、2万人を超えるコマンチ族インディアンの領土であり、1820年代にイギリス系の白人入植者らがこの地に入り込むと、彼らは次々に入植地を増やし、コマンチ族の領土を脅かして彼らと全面戦争に入っていった。ロスはある年の夏休みにコマンチ族の戦士と戦って重傷を負った。ロスは大学卒業後、テキサス白人の民兵隊テキサス・レンジャーズに入り、1860年には「ピース川の戦い」で部隊を率い、子供の時にコマンチ族インディアンに捕まり捕虜となっていたシンシア・アン・パーカーを奪還した。

テキサス州がアメリカ連合国に併合される、ロスは南軍に入った。ロスは135回の戦闘や小競り合いに参加し、最も若い南軍准将の1人となった。南北戦争後、ロスはテキサス州マクレナン郡保安官を短期間務め、それを辞めて1875年のテキサス州憲法制定会議に参加した。テキサス州上院議員となった期間を除き、次の10年間はその農園と牧場の運営に注力した。1887年、ロスは第19代テキサス州知事になった。2期にわたるこの任期の間に、新しいテキサス州会議事堂の竣工やジェイバード・ウッドペッカー戦争の解決に関わり、州庫余剰金を扱う特別会期を招集したことでは唯一のテキサス州知事となった。

ロスは人気があったが、知事3期目の出馬は拒んだ。辞職後はテキサス農業工業大学(現在のテキサスA&M大学)の学長となった。ロスはこの大学を閉鎖の危機から救い、大学の施設を大きく拡張して多くの伝統を生むことに貢献したとされている。ロスの死後、テキサス州議会はロスの栄誉を称えて、サル・ロス州立大学を設立した。
目次

1 初期の経歴

2 ウィチタ集落の戦い

3 テキサス・レンジャーズ時代

3.1 入隊

3.2 ピース川の戦い

3.3 辞任


4 南北戦争での従軍

4.1 入隊

4.2 現役任務

4.3 降伏


5 農業と初期の公的活動

6 知事

6.1 選挙

6.2 二期目

6.3 主要な立法


7 大学の学長

7.1 着任

7.2 改良

7.3 学生に与えた影響

7.4 個人的な生活と死


8 遺産

9 脚注

10 参考文献

初期の経歴

ローレンス・サリバン・ロスは1838年9月27日アイオワ準州ベントンズポートで、シャプリー・プリンス・ロスとキャサリン・ファルカーソン夫妻の4人目、次男として生まれた。母の父はミズーリ州議会議員アイザック・ファルカーソンだった。ロスは、父方の叔父ジャイルズ・O・サリバンと父の祖父や兄弟のローレンス・ロスという名前を合わせて名付けられた。曾祖父のローレンス・ロスは子供時代にインディアンに捕らえられ、6歳から23歳で救助されるまでインディアンと暮らした。ロスは叔父や曾祖父と区別するために、子供時代は「リトルサル」、その後は「サル」と呼ばれた[1]

ロスが生まれて間もなく、両親はアイオワの寒い気候から逃れるためにその資産を売り払ってミズーリ州に戻った。1839年、家族はテキサス共和国に移り、ブラゾス川下流のロバートソン・コロニーに入植した[2][3]。2年後にダニエル・モンロー大尉以下7家族が加わり、現在のキャメロン近くに入って、リトル川沿いの土地640エーカー (260 ha) を受け取った[2]。彼等の住んだ地域はコマンチェ族の縄張りに近接しており、インディアンの襲撃を何回も耐えなければならなかった[2][4]

1845年、一家はオースティンに移転し、ロスやその上の兄弟も学校に通えるようになった[5]。4年後、一家は再度転居した。この時までにシャプリー・ロスは開拓者として良い評判を得ており、新しく形成されたウェーコの地域社会に入植するよう説得され、市の4区画とブラゾス川の渡し船の排他的運航権および1エーカー1ドルで80エーカー (32 ha) の農地を購入する権利を与えられた[6][7]1849年3月、ロス家はウェーコの泉を見下ろす崖の上に二重丸太の小屋である最初の家を建てた。間もなくロスの妹ケイトはウェーコで生まれた最初の白人の子供となった[7]

ロスは教育を受けることに熱心であり1856年にベイラー大学(当時はテキサスのインデペンデンスにあった)の予備門に入ったが、他の学生大半より数歳年上だった。ロスは2年間の課程を1年で終えた[8][9]。そこを出た後は、アラバマ州フローレンスのウェズリアン大学に進んだ[4][10]。ウェズリアンの教員はロスの数学の知識が欠けているとみなし、その入学を拒んだ。その決定はある教授が個人的にロスに数学を教えるということに同意した後で撤回された[10]。ウェズリアン大学では学生達が寮で集団生活を送る代わりに名家に寄宿していたので[9]、「日々、良いマナーと洗練さに曝される」生活を送ることになった[11]。ロスはその教授の家庭で生活した[11]


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