基礎自治体(Politische Gemeinden)章
位置
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯47度20分00秒 東経09度10分00秒 / 北緯47.33333度 東経9.16667度 / 47.33333; 9.16667
ロールシャッハ(ドイツ語: Rorschach)は、スイス、ザンクト・ガレン州のロールシャッハ行政区にある基礎自治体(ポリティッシェ・ゲマインデン)。ボーデン湖(コンスタンツ湖)の南側に位置する。
概要
地理ロールシャッハ近郊のボーデン湖
ロールシャッハは2006年現在[update]、1.8 km2 (0.69 sq mi)の面積を持つ。[1]ボーデン湖近辺に位置し、ロールシャッハ行政区の中心都市である。 2015年12月31日の時点で人口は9,214人。[2]人口の歴史的変遷は以下の通りである。[1] 年人口 2007年の総選挙において、この地域で最も支持を集めたのはスイス国民党(SVP)で、26.1%を獲得した。次いでスイス社会民主党(SP)、スイスキリスト教民主党(CVP)などが支持された。 鉄道がロールシャッハとザンクト・ガレン、ザンクト・マルグレーテン、ローマンスホルンをそれぞれ結んでいる。ラック鉄道のロールシャッハ-ハイデン鉄道はハイデン
人口統計
1468年約875
18501,751
19009,140
195011,325
2000年8,647
政治
交通ロールシャッハ駅
高速道路A1がロールシャッハの南を通っているが、ジャンクション自体はない。 高速道路は、西はザンクト・ガレン、東はザンクト・マルグレーテンまで伸びている。
ロールシャッハには、旅客フェリーが運航する港もある。 これらの船は湖畔にあるスイス側の町とドイツ側の町をつないでいる。
また多くのハイキングコースがあり、その中にはサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路の一つである「聖ヤコブの道」も含まれている。
紋章ロールシャッハの紋章
市の紋章記述は「Gules a Garb Or between two Perches urinant.」と表される。[3]
歴史アッペンツェルとザンクト・ガレンの兵がロールシャッハの修道院を攻撃する様子。(ルツェルン・シリングより)
ロールシャッハが初めて歴史に登場するのは850年のことで、当時は「Rorscachun」と呼ばれていた。[4] 947年、オットー1世はザンクト・ガレン修道院の修道院長にロールシャッハで市場の操作や造幣、関税賦課ができる権利を与えた。
1489年から1490年にかけて起きたロールシャッハにおける修道院の破壊(Rorschacher Klosterbruch)は、ザンクト・ガレン戦争を引き起こした。ザンクト・ガレン市との数十年にわたる紛争の末、1480年後半に修道院長は修道院をザンクト・ガレン市からロールシャッハに移動する計画を立て始めた。移動することによって、彼は都市の独立と紛争から逃れることを望んだ。加えて、重要な湖の交易ルートに近づくことで、ロールシャッハを主要な港にし、税金を稼ぐことができるようになった。するとザンクト・ガレン市とその市長ファルンビューラーは、新しい港ロールシャッハによって貿易ルートがザンクト・ガレン市とアッペンツェルを迂回することを恐れた。こうして彼らは修道院の港を経由して生地を売らざるを得なくなった。[5] ザンクト・ガレンやアッペンツェルの都市は新しい修道院に反対したにもかかわらず、教皇シクストゥス4世の承認と皇帝フリードリヒ3世との長い交渉の末、新しい修道院の礎石が1487年3月21日に敷設されることとなった。