市旗市章
愛称 : City of Oaks
位置
右: ノースカロライナ州におけるローリーの位置
左: ウェイク郡におけるローリーの市域
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度49分8秒 西経78度38分41秒 / 北緯35.81889度 西経78.64472度 / 35.81889; -78.64472
ローリー[2](Raleigh [?r??li][3])@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}またはラーレイ、ラーリーと呼ばれるの[注釈 1][要出典]は、アメリカ合衆国ノースカロライナ州中央部に位置する都市。同州の州都であり、ウェイク郡の郡庁所在地である。また、北はニュージャージー州から南はアラバマ州まで、ピードモント台地の東縁に連なる滝線都市の1つとして知られている。人口は46万7665人(2020年)で、シャーロットに次ぐ州第2の都市である。ローリー市域のほとんどはウェイク郡内に属し、一部が西隣のダーラム郡にかかっている[4]。ローリーの郊外には、西に隣接する発展著しい大型衛星都市ケーリーをはじめ、いくつかの衛星都市化した町村がひしめいている。
ローリーは近隣のダーラムやチャペルヒルと共に、リサーチ・トライアングルと呼ばれる都市圏の中心都市として発展してきた。リサーチ・トライアングルの名は、1959年にこの地域に設置されたリサーチ・トライアングル・パークに由来している。また、この「トライアングル」という名はローリーのノースカロライナ州立大学、ダーラムのデューク大学、およびチャペルヒルのノースカロライナ大学の3つの大学に由来している。正式には、リサーチ・トライアングルはこの3都市の名を冠して、ローリー・ダーラム・ケーリー広域都市圏という。ローリー都市圏とダーラム・チャペルヒル都市圏の2つを抱え、11郡にまたがるこの広域都市圏は1,740,185人の人口を抱えている。また、そのうちの3郡を占めるローリー都市圏だけでも1,130,490人の人口を抱えている(いずれも2010年国勢調査)[5]。
また、ローリーにはオークの木が多数立つことから、「オークの街」(City of Oaks)と呼ばれている。
なお、市名はここでは「ローリー」と表記されるが、現地の発音では「ラァリー」に近い。本項目においては、「ローリー」という表記を用いる。 1770年12月、ジョエル・レーンがノースカロライナ州議会に提出した嘆願書が通り、この地にウェイク郡が創設された。ウェイク郡域はカンバーランド、オレンジ、ジョンストンの各郡からそれぞれ一部が取られての再編によって形成された。郡名は当時の州知事ウィリアム・タイロンの妻、マーガレット・ウェイク・タイロンからつけられた。最初の郡庁はブルームズバリーに置かれた。初期のローリー市街地。通りは碁盤の目のように整然と区画されている。(図は1872年) ローリーが州都に選ばれたのはその18年後、1788年のことであった。公式には、ローリーが新しい州都、およびウェイク郡の新しい郡庁所在地として創設されたのは1792年であった。市名はロアノーク島に最初のイングランド植民地を築いたウォルター・ローリーからつけられた。この地に市が建設された理由の1つには、州議会議員がよく集まった酒場、アイザック・ハンターズ・タバンから10マイル(約16km)の範囲内にあったことがあったと考えられている。この地には既に創設されていた都市や町などは無かった。ローリーは全米でも数少ない、創設当初から州都として建設された都市の1つである。最初の市境はダウンタウンの東・西・南・北を走る通りで形成されていた。市内の通りは碁盤の目のように区画され、4つの公園と1つの中央広場が設けられた[6]。1794年12月には、ローリーで初めてノースカロライナ州議会が開かれた。ローリーは正式な市となり、7人の議員からなる市議会と、警察行政長官が置かれた。警察行政長官は1799年に市長の管理下に置かれ、市議会は1803年以降は市から選出されるようになった。1799年には、ローリーで初の新聞となった、ノースカロライナ・ミネルバ・アンド・ローリー・アドバタイザー(N.C. Minerva and Raleigh Advertiser)紙が発刊された[7]。 19世紀に入ると、やや遅れたもののインフラの整備が進められた。1818年には上下水道が引かれ、1819年には有志による消防団が結成された。1821年には全日勤務の消防局が設置された。1840年にはウィルミントン・アンド・ローリー鉄道、およびローリー・アンド・ガストン鉄道の2本の鉄道が開通した。 また、この1840年には、1831年に焼失し、その2年後、1833年に再建が始まった州会議事堂が完成した。現在残っている庁舎はこの年に再建されたものである。1853年には、ローリー近郊で最初のステート・フェアが開かれた。1858年には、ローリーで最初の高等教育機関となるピース女子大学が設立された。 南北戦争が開戦すると、州知事ゼブロン・バード・バンスは北軍の攻撃からの防護を目的として、市の周囲に胸の高さまでの防壁を張り巡らすことを命じた。北軍のウィリアム・シャーマンがカロライナ方面作戦を展開している最中には、ローリーはジャドソン・キルパトリックの指揮下にあった北軍の兵士によって占領されていた。南軍の兵士が西へ逃走すると、北軍がそれを追い、近郊のモリスビルで戦闘となった[8]。
歴史
創設期
南北戦争と人種の壁レナード・メディカル・センター、1899年