ローリー・アンダーソン
Laurie Anderson
ローリー・アンダーソン(1980年代)
基本情報
出生名Laura Phillips Anderson
生誕 (1947-06-05) 1947年6月5日(76歳)
出身地 アメリカ合衆国 イリノイ州グレンエリン
ジャンルアヴァン・ポップ、アート・ポップ[1]、実験音楽
職業ミュージシャン、パフォーマンス・アーティスト
担当楽器ヴァイオリン、パーカッション、キーボード、ボーカル
活動期間1969年 -
共同作業者ルー・リード、ピーター・ガブリエル、ブライアン・イーノ、ジョン・ゾーン、ナイル・ロジャース、コリン・ステットソン
ローリー・アンダーソン(Laurie Anderson、1947年6月5日 - )[2]は、アメリカの前衛芸術家[3][4]、作曲家、音楽家、映画監督であり、パフォーマンスアート、ポップ・ミュージック、マルチメディア・プロジェクトにまたがって活動している[4]。アンダーソンは当初、ヴァイオリンと彫刻[5]の訓練を受けていたが、1970年代にニューヨークでさまざまなパフォーマンス・アート・プロジェクトを追求するようになり、とりわけ言語、テクノロジー、視覚的イメージに焦点を当てるようになった[3]。
シングル「オー! スーパーマン」が1981年に全英シングルチャートで2位に達し、彼女はアート界という枠の外側でより広く知られるようになった。また、1986年のコンサート映画『ホーム・オブ・ザ・ブレイヴ』に出演および、監督を担当した[6]。
アンダーソンは電子音楽のパイオニアであり、レコーディングやパフォーマンス・アート・ショーで使用したいくつかのデバイスを発明した[7]。1977年、馬の毛の代わりとして弓に録音された磁気テープを、ブリッジに磁気テープヘッドを使用するテープ・ボウ・ヴァイオリンを作成した[8]。1990年代後半、彼女はインターバル・リサーチ社と協力して、サウンドにアクセスして複製できる長さ6フィート(1.8m)のバトンのようなMIDIコントローラーである「トーキング・スティック」と呼ばれる楽器を開発した[9]。
アンダーソンは1992年にシンガーソングライターのルー・リードと出会い、2008年4月からルーが亡くなる2013年まで結婚していた[10][11][12][13]。 アンダーソンは1947年6月5日にイリノイ州グレンエリンで、メアリー・ルイーズ(旧姓ローランド)とアーサー・T・アンダーソンの娘として生まれた[14]。グレンバード・ウェスト高校を卒業。カリフォルニアのミルズ大学に通い、最終的には1969年にバーナード・カレッジにおいて美術史を研究し文学士号、マグナ・クム・ラウデとファイ・ベータ・カッパを取得して卒業した。1972年には、コロンビア大学において彫刻でM.F.A.(美術学修士)を取得した[15]。彼女の最初のパフォーマンス・アート作品である「自動車のクラクションで演奏される交響曲」は、1969年に演奏された。1970年、彼女はジョージ・ディカプリオによって出版されたアンダーグラウンド・コミックスの『Baloney Moccasins』を描いた。1970年代初頭、彼女はアート・インストラクターとして『Artforum』などの雑誌における美術評論家として働き[16]、また、児童書のイラストを描いた[17]。その最初のタイトルは、絵だけの謎の物語である『The Package』であった[18]。 彼女はトライベッカに暮らしている[19]。 アンダーソンは1970年代にニューヨークでパフォーマンスを行った。彼女の最も代表作とされたパフォーマンスの1つである『Duets on Ice』は、ニューヨークや世界中の他の都市で行われ、氷のブロックで凍らせた状態のブレードを伴うアイス・スケートを履きながら、録音とともにヴァイオリンを演奏した。そして、氷が溶けることで公演が終了するというものだった。初期の2作品、『New York Social Life』『Time to Go』は、ポーリン・オリヴェロスらの作品とともに、1977年のコンピレーション『New Music for Electronic and Recorded Media』に収録されている[5]。その他の2作品は、さまざまなアーティストによるオーディオ作品のコレクションである『Airwaves
生い立ち
略歴
1970年代
アンダーソンの初期のレコーディングの多くは未発表のままであるか、最初のシングル『It's Not the Bullet that Kills You (It's the Hole)』(それはあなたを殺す弾丸ではない<それは穴です>)のように限定枚数でしか発表されなかった。この曲は「New York Social Life」や他の約12曲とともに、元々、ニューヨークのホリー・ソロモン・ギャラリーで、さまざまなアンダーソン作曲を演奏するジュークボックスで構成されるアート・インスタレーションで使用するために録音された。これら初期のレコーディングにおけるミュージシャンの中には、サックスのピーター・ゴードン、ギターのスコット・ジョンソン、ハーモニカのケン・デイフィク、ドラムのジョー・コスがいる。これらの初期の公演の多くの写真と解説は、アンダーソンの回顧本『Stories from the Nerve Bible』に収められた[20]。
1970年代後半、アンダーソンは、個人的にリリースされるか前衛的な音楽のコンピレーションに収録された、いくつかの追加レコーディングを行った。1978年、彼女は、ウィリアム・S・バロウズ、フィリップ・グラス、フランク・ザッパ、ティモシー・リアリー、マルコム・ゴールドスタイン、ジョン・ケージ、アレン・ギンズバーグなど、数多くのカウンターカルチャーの人物や新進気鋭のミュージシャンたちが参加する主要な会議「ノヴァ・コンベンション (The Nova Convention)」にてパフォーマンスを行った[21]。また1970年代後半には、コメディアンのアンディ・カウフマンと一緒に仕事している[22]。 1980年、アンダーソンはサンフランシスコ・アート・インスティテュートから名誉博士号を授与された。1982年には、創造的芸術(映画)のためのグッゲンハイム・フェローを授与されている[15]。1987年にアンダーソンはフィラデルフィアのアーツ大学から美術の名誉博士号を授与された[23]。
1980年代