ローラ・ジスキン
Laura Ziskin
本名Laura Ellen Ziskin
生年月日 (1950-03-03) 1950年3月3日
没年月日 (2011-06-12) 2011年6月12日(61歳没)
出生地 アメリカ合衆国 カリフォルニア州サンフェルナンド・バレー
死没地 アメリカ合衆国 カリフォルニア州サンタモニカ
職業映画プロデューサー
活動期間1976年 - 2011年
配偶者ジュリアン・バリー
ローラ・エレン・ジスキン(Laura Ellen Ziskin[1], 1950年3月3日 - 2011年6月12日[2])は、アメリカ合衆国の映画プロデューサーである。史上はじめてアカデミー賞を単独でプロデュースしたプロデューサーであり、2002年の第74回と2007年の第79回をプロデュースした。 カリフォルニア州サンフェルナンド・バレーで生まれ育った[3]。父親のジェイ・ジスキンは心理学者で弁護士であり、1997年に77歳で前立腺癌により亡くなった[4]。ユダヤ系の家族である[5]。1973年に南カリフォルニア大学の映画芸術学部を卒業後[3]、ジスキンはゲーム・ショウの脚本を書き始め、その後はジョン・ピーターズの個人秘書になった。ジスキンはすぐにピーターズの製作会社の企画幹部となり、1976年のバーブラ・ストライサンド主演の『スター誕生』に着手した。27歳くらいの頃に脚本家のジュリアン・バリー 1984年にサリー・フィールドと共にフォグウッド・フィルムズを設立し、『マーフィのロマンス 1990年、タッチストーン・ピクチャーズのもとでジュリア・ロバーツとリチャード・ギア主演のコメディ『プリティ・ウーマン』に製作総指揮として参加した[11]。翌年の『おつむて・ん・て・ん・クリニック』では製作時に出演者のビル・マーレイとの意見の相違があった[12]。それと『ドクター』[13]の2作は興行収入は『プリティ・ウーマン』ほど芳しくなかった[14]。1992年、コロンビア映画でスティーヴン・フリアーズの『靴をなくした天使』を製作し、さらに原案にも協力した[15]。1994年には短編映画 『Oh, What a Day! 1914』で監督デビューした[16]。1995年、ローラ・ジスキン・プロダクションズでニコール・キッドマン主演の『誘う女』を製作した[17]。 1994年に20世紀フォックス傘下のフォックス2000の社長に就任し、そのあいだにエドワード・ズウィック監督の戦争映画『戦火の勇気』、恋愛映画『素晴らしき日』、パット・オコナーの『秘密の絆』、ディザスター大作『ボルケーノ』が公開された。ジスキンとトム・ロスマン
生涯
フォグウッド・フィルムズ及びインディペンデント・プロデューサー時代
タッチストーン・ピクチャーズ
フォックス2000
1997年の『恋愛小説家』の製作総指揮を務め、同作品はアカデミー賞7部門で候補に挙がり、ジャック・ニコルソンとヘレン・ハントが主演男優賞、主演女優賞を受賞した。 社長就任の約5年後となる1999年11月、ジスキンはフォックス2000を辞め、コロンビア ピクチャーズへ移った。2002年3月に第74回アカデミー賞をプロデュースし、5月には大作映画『スパイダーマン』が公開された。
コロンビア映画