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出典検索?: "ローラン" シャルルマーニュ伝説
ローラン(英: ローラン(Roland)、(仏: ロラン(Roland)、伊: オルランド(Orlando)、独: ローラント(Roland))は、中世・ルネサンス期の文学作品においてシャルルマーニュの聖騎士(パラディン)の筆頭として登場する人物。イタリア・フランスの武勲詩でも重要な活躍をする。12世紀始めに成立した『ローランの歌』はロンスヴォーの戦いにおけるローラン最後の戦いをテーマにした物語である。しかし、後に成立した武勲詩やルネサンス期の『恋するオルランド』、『狂えるオルランド』などは殆ど歴史に基づいて執筆されてはいない。大抵は、聖剣デュランダルと、愛馬ヴェイヤンティフ(別名ブリリアドロ)(フランス語版)[注 1]がローランを語る上で結びつけて語られることが多い。 フランスに実在したローランについては、シャルルマーニュの廷臣にして歴史家のアインハルトが記した『Vita Karoli Magni(カール大帝伝) 』の記述のみが存在する。これによると、シャルルマーニュが778年にスペインに遠征した際の帰り道、ピレネーでバスク人の奇襲を受け、最後尾にいた後衛隊が全員戦死したが、その中にブルターニュ辺境伯(Brittannici limitis praefectus)のフルオドランドゥス/フルオドランド(Hruodland(us))がいたと記述されている。このように、資料においてはローランの名前と肩書きのみが記載され、詳しいことは判らない[1]。 なお、ブルターニュは、その名が示す通り、ケルト系のブルトン人が住んでいるところであり、現在でもその要素が濃い。またローランのデュランダルは「聖剣伝説」という点で、同じくケルト系に由来するアーサー王のエクスカリバーと酷似している。
史実のローラン
伝説上のローランブレーメンのローラント像 .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯53度4分33.15秒 東経8度48分26.30秒 / 北緯53.0758750度 東経8.8073056度 / 53.0758750; 8.8073056
ローランは中世ヨーロッパで人気のある伝説上の人物であった。数世紀を経て、ローランは中世の吟遊詩人で人気の演目になった。多くの伝説によれば、それが史実かどうかは不明であるが、ローランはシャルルマーニュの甥ということになっており、叙事詩では良きキリスト教徒としてイスラム軍と戦い、戦死している。ローランの物語は11世紀の『ローランの歌』によって語り継がれ、この物語ではオリファンという角笛をもち、聖遺物によって祝福されたデュランダルという破壊できない聖剣を装備している。ローランの始めの物語はボイアルドの『恋するオルランド』において書かれている。ボイアルドの死後はアリオストによって『狂えるオルランド』が書かれており、またダンテの『神曲』によればローランの魂はその他の殉教者達とともに天国にいるとされている。
ドイツにおいては、ローラン(ドイツ語では「ローラント」)は徐々に都市が地方貴族から独立している「自由」の象徴となっていった。中世の終わり頃、多くの都市は広場にローラントの像(de:Roland (Statue))を建立した[2]。ブレーメン市庁舎前のローラント像(Bremer Roland;1404年建立)は特に有名で、2004年に市庁舎とともにユネスコにより世界文化遺産として登録された。
カタロニアでは、ローランは伝説の巨人となっている。ピレネー圏全体で特性が変わってゆく痕跡で、ローランのバスク語読みである「Errolan」という言葉は多くの伝説で力強い異教徒の巨人、巨岩が浮かんでいる地名と結び付けられることが多い。面白いことに、バスク語の「erraaldoi(巨大、巨人)」という単語は「Errolan」に由来しているという。 シャルルマーニュの甥として、武勇に優れ、信頼も厚い。作中では知的なオリヴィエに対し、ローランは勇敢であると対比される。ローランの独白という形ではあるが、アンジュー、ブルターニュを始め、ノルマンディー、アキテーヌなどで戦闘を重ね、多大な功績をあげたとのことが記されている(『ローランの歌』、2315 - 2335)。 ローランはシャルルマーニュとともに7年に渡るスペイン遠征に従軍する。彼は追い詰めた敵軍への和睦の使者として、養父のガヌロン
文学作品での活躍
ローランの歌
偽りの和睦を勝ち得た帰り道、ガヌロンの陰謀によりローランはオリヴィエたちと殿軍(しんがり)を勤め、襲い掛かる40万のイスラム軍に対して2万の手勢で戦うこととなってしまう。この時、ローランはオリファンという角笛を持っており、これを吹けば本隊が救援に駆けつけてくるはずであったのだが、体面に拘るローランは救援を呼ぶことを拒否してしまう。この行為はオリヴィエらから批判される。ローランは全滅間近に意見を変え角笛を吹こうとするが「今頃遅い」とまたオリヴィエから非難されている。
それでもローランたちは力の限り戦い、スペインの十二勇士を撃退し、ローランはスペイン国王の右手首を切り落とす活躍をするものの、フランスが誇る十二勇将は一人一人と戦死していった。ローランも力尽き斃れた。その直前、聖剣デュランダルが敵の手に渡るのを嫌がり、岩にぶつけて破壊しようとしたが、結局デュランダルを破壊することはできなかった。
なお、戦いの中でローランはオリヴィエに敵と間違えられて脳天から叩き斬られるほか、多くの銛・短槍・投げ矢・投げ槍・長槍を敵に放たれたが、彼の防具などが壊れるだけで彼自身が傷ついたという記述はない。ローランが傷付いたのはこめかみの血管が破れ脳漿が耳からはみ出るほどオリファンを力の限り強く吹いた時だけである。
イタリア叙事詩オルランドは錨を武器にオルクと戦う。『狂えるオルランド』より。
後世になり、イタリアなどでは『ローランの歌』の前日談が追加された。なお、イタリアでは通常「ローラン」でなく「オルランド」とされる。有名なものとして、ルイジ・プルチの『モルガンテ』、ボイアルドの未完に終わった『恋するオルランド』などがある。その中でもっとも知られている作品はアリオストの『狂えるオルランド』である。
『狂えるオルランド』では、素手で人間を引き裂く怪力に、全身が金剛石と同程度の強度をもち、刃を受け付けない。唯一傷を負う可能性があるのは足の裏のみ(第11歌49節)という設定となっている。