ローラン・ボック
[Wikipedia|▼Menu]

ローラン・ボック
プロフィール
リングネームローラン・ボック
ニックネーム地獄の墓掘人
欧州の帝王
欧州最強の男
身長191cm - 196cm
体重120kg - 125kg
誕生日 (1944-08-03)
1944年8月3日(79歳)
出身地 ドイツ
バーデン=ヴュルテンベルク州
ガイスリンゲン・アン・デア・シュタイゲ
スポーツ歴レスリング
トレーナークラウデ・レロン[1]
チャールズ・フェルフルスト(ジョニー・ロンドス[1]
デビュー1973年9月7日
引退1982年1月1日
テンプレートを表示

ローラン・ボック(Roland Bock、1944年8月3日 - )は、ドイツの元プロレスラー。旧西ドイツバーデン=ヴュルテンベルク州ガイスリンゲン出身。

リングネームはローランド・ボックとも表記されていた[† 1]。また、1978年アントニオ猪木との対戦を報じた雑誌では、明らかな誤表記であるがローラン・ブルックなどと紹介されたこともある。

ドイツを主戦場に、アマチュア時代に培った高度なレスリング技術と巨体から繰り出される怪力を活かして活躍したが、後述するジョージ・ゴーディエンコダニー・リンチ、猪木、アンドレ・ザ・ジャイアントとの試合など、プロレス暗黙の了解をしばしば無視し、時には対戦相手を故意に負傷させるといった悪評も付いて回った[† 2]。その妥協なきファイトスタイルから、日本では「地獄の墓掘人」の異名を持つ[2]
来歴
アマチュア時代

14歳でレスリングをはじめ、1961年西ドイツのジュニア選手権で優勝[3]1963年にはシニア選手権でフリースタイルの3位に入賞し、翌1964年東京オリンピックにノミネートされるが、関節を痛めて出場を断念している[3]1968年、グレコローマンスタイルのヘビー級西ドイツ代表としてメキシコシティオリンピックに出場[3][4][† 3]1970年には欧州選手権で優勝し、1972年ミュンヘンオリンピックにも出場予定だったが、同年に行われた欧州選手権の試合当日に体調を崩して欠場したため、ナショナルチームを除名され出場停止処分を受けている[3](興奮剤の使用を巡って西ドイツの体育協会とトラブルを起こし、出場停止になったともされている[5])。

競技レスリングでの成績は、次のとおり[6]

国際大会

年順位大会スタイル体重別階級
1965年2位クリッパン・トーナメントGRヘビースウェーデンのラグナル・スヴェンソンが優勝、ユーゴスラビアのミオドラグ・シタコビッチが3位
1965年3位モスクワでの「IvanPoddubny」トーナメントGRヘビーソビエトのニコライ・シュマコウとアナトリ・ロシチンに続く3位
1966年2位KlippanトーナメントGRヘビースウェーデンのスヴェンソンが優勝、デンマークのヴァルター・クレーマンが3位
1966年4位1966年のヨーロッパレスリング選手権(エッセン)GRヘビートルコのベキル・アクス、ルクセンブルクのヨーゼフ・シュマー、チェコスロバキアのペトル・クメント、ソビエトのロシチンに引き分け、ハンガリーのイシュトヴァーン・コズマに1敗
1968年5位1968年のヨーロッパレスリング選手権(ヴェステロース)GRヘビーベルギーのレイモンド・ウイッターゲーゲに勝利し、ポーランドのエドワード・ウォイダ、スウェーデンのスヴェンソン、ソビエトのアナトリ・コッホニューに引き分け
1968年6位1968年のヨーロッパレスリング選手権(スコピエ)Fヘビースイスのブルーノ・ユッツェラーに勝利し、スウェーデンのアルネ・ロバーツソンとハンガリーのニャールス・ラースローに引き分け、ソビエトのアレクサンダー・メドウェドに敗退
1968年11位1968年メキシコシティーオリンピックのレスリング競技GRヘビースウェーデンのスヴェンソンと同点で、ソビエトのロシチンとブルガリアのステファン・ペトロウに敗退
1969年1位KlippanトーナメントGRスーパーヘビーソビエトのコッホニュー、東ドイツのユルゲン・クリンゲ、スウェーデンのロバーツソンらに勝利
1970年1位1970年のヨーロッパレスリング選手権(東ベルリン)GRスーパーヘビーフィンランドのライモ・カールソン、ハンガリーのヨーゼフ・ツァターリ、ブルガリアのアレクサンダー・トモウらに勝利、チェコスロバキアのペトル・クメントに引き分け
1970年7位1970年レスリング世界選手権(エドモントン)GRスーパーヘビーユーゴスラビアのイストヴァン・セメレディに勝利、ロシュチンに引き分け、ブルガリアのトモウに敗退
1972年4位1972年のヨーロッパレスリング選手権(カトヴィツェ)GRスーパーヘビースイスのカール・バッハマン、イタリアのジュゼッペ・マルクッチ、フィンランドのカールソンに勝利し、ルーマニアのビクトル・ドリプスキに1敗した後、怪我のために辞退

国内選手権

年順位年齢層スタイル体重別階級結果
1961年2位ユースAF体重79kg以上ハインツ・キール、ユルゲン・シャウブルッフ、アーサー・コップらと対戦
1962年1位ユースAF体重79kg以上ベルリン代表カール=ハインツ・リンデナウ、ボン / デュースドルフ代表マンフレッド・シューマンに勝利 
1962年1位ジュニアFヘビーヴェルナー・ブルクハルト、ベルトルト・スティクラーに勝利
1963年3位シニアFヘビーシファーシュタット代表ウィルフリード・ディートリッヒが優勝、ハインツ・ヴォルブが2位
1965年1位ジュニアGRヘビールートヴィヒスハーフェン・アム・ライン代表ゲルト・フォルツらに勝利
1965年2位シニアFヘビーディートリッヒが優勝、ニュルンベルク代表ヘルムート・レーヴが3位
1966年2位シニアFヘビーディートリッヒが優勝、ヴィッテン代表ハインツ・アイヒェルバウムが3位
1966年2位シニアGRヘビーディートリッヒが優勝、アイヒェルバウムが3位
1968年1位シニアFヘビーミュンヘン代表ヨーゼフ・ガンメルとアイヒェルバウムに勝利
1968年3位シニアGRヘビーアイヒェルバウムとホルスト・シュワルツに続く3位
1969年1位シニアFスーパーヘビーアイヒェルバウムとフォルツに勝利
1969年1位シニアGRスーパーヘビーシュワルツとフォルツに勝利
1970年2位シニアGRスーパーヘビーシュワルツが優勝、ガンメルが3位
1971年2位シニアGRスーパーヘビーシュワルツが優勝、ガンメルが3位
1972年1位シニアGRスーパーヘビーシュワルツが2位、ユルゲン・ベートマンが3位

プロ転向後

1973年、ポール・バーガーのオファーを受けてプロレスラーに転向[7]。同年9月7日、ハンブルクにてアルゼンチン出身のオスカー・ラゴとデビュー戦を行い、反則負けを喫している[7]。翌1974年は8月31日にミュンスターにてジョージ・ゴーディエンコシュートマッチを行い[† 4][8]、10月25日にはミュンヘンにてメキシコから遠征してきたミル・マスカラスに勝利[8]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:54 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef