ローランド・ラッツェンバーガー
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ローランド・ラッツェンバーガー
Roland Ratzenberger
予選2日目へ臨むラッツェンバーガー
このセッションで悲劇を迎えてしまう
1994年サンマリノGP
基本情報
国籍 オーストリア
出身地同・ザルツブルク
生年月日 (1960-07-04) 1960年7月4日
死没地 イタリア
同・ボローニャ
没年月日 (1994-04-30) 1994年4月30日(33歳没)
F1での経歴
活動時期1994
所属チーム'94 シムテック
出走回数3 (1スタート)
タイトル0
優勝回数0
表彰台(3位以内)回数0
通算獲得ポイント0
ポールポジション0
ファステストラップ0
初戦1994年ブラジルGP
最終戦1994年サンマリノGP
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ローランド・ラッツェンバーガー(Roland Ratzenberger, 1960年[1]7月4日 - 1994年4月30日)は、オーストリア出身のレーシングドライバー。日本では「ラッツェンさん」の愛称で親しまれていた。ドイツ語ではローラント・ラッツェンベルガーと発音する。
経歴
少年期

実家はザルツブルクリンクへ徒歩で行けるような距離にあったが、父は保険会社の社員でモーターレーシングには全く関心が無かった。母も共働きで働いており、ラッツェンバーガーは祖母に育てられた「おばあちゃん子」であった。5歳のとき観戦したレースがきっかけで、レーシングドライバーになることを決意。その後、父の勧めで入ったエンジニアリング専攻の大学を中退してレース活動を開始した。このことで父親との関係が悪化。父は「サラリーマンだけが真面目な職業だと考えるような古いタイプの人間(ラッツェンバーガー談)」のため、レーシングドライバーは仕事ではないとレースに出始めることを猛反対する。その溝は長い間埋まらず、日本で何年かレースをして収入が得られるようになってからは、「それまでは意思疎通の一つすらなかったのが、やっと話だけはしてくれるようになった」という。それでも「レーサーというものを一過性の病気のように思っていて、30歳を過ぎれば熱も冷めるだろうぐらいに考えているようだった。でも少しは和解出来てよかったと思うよ。」と1993年に話している[2]
イギリス・ドイツでの活動

1981年から2年間ジム・ラッセル・レーシングスクールでメカニックとして働いて活動資金を得て、1983年にドイツフォーミュラ・フォードでレースデビュー(1986年まで)。同郷で4つ年上のフランツ・トスト(後々のトロ・ロッソ / アルファタウリF1チーム代表)とは親友で、共に寝泊りしながらサーキットを転戦した。

1986年イギリスで行われたフォーミュラ・フォード1600・フェスティバルで優勝。1987年からイギリスF3に進出。ツーリングカーレースでもBMWのワークスチームであるシュニッツァーのレギュラードライバーになる(いずれも1988年まで)。1987年冬から1988年開幕にかけてのシーズンオフに、F1に新規参戦するドイツのリアルチームのドライバー候補に名前が挙がったが、候補に留まった[3]
日本でのレース活動

1989年、イギリスF3000参戦のかたわら、全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)にトヨタのセミワークスのサードから参戦[4](1992年まで)。日本でレースすることになったきっかけは、同年よりサードがトヨタのセミワークスチームとして活動することになり、イギリスのアラン・ドッキング・レーシングから推薦されたラッツェンバーガーをまずは日本でのテストに参加させることになった。オーディションを兼ねた数回のテストで好タイムを出したことでトヨタからのOKも得られた。サードの加藤眞代表からラッツェンバーガーは息子のように面倒を見てもらい、加藤が経営する浜名湖湖畔のペンションの一室で生活することになった。来日間もない彼は加藤いわく「高校生のように従順だった」という真面目さだった。ジョギングするには最高の環境の浜名湖畔で、食事も加藤と相談し魚と穀物とパスタを中心に、大量に出される野菜を毎日食べた。言葉の通じない異国の、森と泉に囲まれた環境でラッツェンバーガーはレーサーとしての力を伸ばしていった[5]

1990年のサードとの契約内容にはトヨタの3.5L・NAマシンの開発ドライバーを務めることが盛り込まれており[6]、開発ドライバーとしての評価が高かったことが窺われる。この頃にはオーストリアからプロトレーナーを招いて食事を含むトータルトレーニングプログラムを毎日消化していた。

1990年は全日本F3000にも参戦するが、全戦ではなく数レースにスポット参戦。メインはJSPCと全日本ツーリングカー選手権(JTC)への参戦で、JTCにはステラインターナショナルの運営する「オートテックレーシング」の黄色いBMW・M3で参戦、1991年にはトーマス・ダニエルソンと組んでクラス優勝、1992年はステラのF3000でもチームメイトのアンドリュー・ギルバート=スコットと組んで1勝、ランキング5位に入る。JTCでは3シーズン通算6勝を挙げる活躍を見せた。

1992年1993年はJTCでも所属するステラインターナショナルから全日本F3000にもフル参戦。鈴鹿を得意とし、2PP、1勝を挙げるなど[7]ランキング7位と活躍。日本のレース界との関わりは深かった。
F1

1994年に、新興チームのシムテックフォードと5戦のみの契約(序盤4戦と日本GP)ながら念願のF1のシートを獲得した。

開幕戦のブラジルGPは惜しくも予選落ちしたが、岡山県のTIサーキット英田で行われた第2戦パシフィックGPで予選を通過。馴染み深い日本でF1デビューを果たし、11位で完走した。ヴィルヌーヴ・コーナーがラッツェンバーガーの事故現場となる。翌日の決勝では直前のコーナーであるタンブレロにてアイルトン・セナがクラッシュし事故死するアクシデントが発生した。

しかし、続く第3戦サンマリノGPにおいて、4月30日の予選二日目でのタイムアタック中、ヴィルヌーヴコーナー手前でフロントウイングが脱落しコントロールを失い、マシンは310km/hでコンクリートウォールに激突した。病院に搬送されたものの、頚椎骨折、内臓破裂などでほぼ即死の状態だった。33歳没。事故の衝撃は、強度の高いカーボンモノコックに穴が開くほどのものであり、ラッツェンバーガーの体は露出していた。なお、突然ウイングが脱落した要因については、事故の直前の周に一度コースアウトしており、そのときにフロントウィングにダメージを受けていた可能性が高いと言われている。

レースウィーク中では、1982年のリカルド・パレッティ以来12年ぶりに発生した死亡事故であり、F1マシンドライブ中でも1986年のエリオ・デ・アンジェリス以来8年ぶりとなった。

ラッツェンバーガーは故郷ザルツブルグのマックスグラン(ドイツ語版)にある墓地に眠っている[8]
人物・エピソード

サードの
加藤眞はラッツェンバーガーのドライビングを「最初はシフト操作のまずさが課題で、彼の乗り方だと燃費も悪かったです。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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