ローランド・アローホ
Rolando Arrojo基本情報
国籍( コスタリカへ亡命)
出身地 キューバ
ビジャ・クララ州サン・ホアン・デ・ロス・イエラス
生年月日 (1968-07-18) 1968年7月18日(55歳)
身長
体重6' 4" =約193 cm
236 lb =約107 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1997年 アマチュアFA
初出場1998年4月1日
最終出場2002年9月22日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
シトリクルトレス
ナランハス・デ・ビジャ・クララ
タンパベイ・デビルレイズ (1998 - 1999)
コロラド・ロッキーズ (2000)
ボストン・レッドソックス (2000 - 2002)
国際大会
代表チーム キューバ
五輪1992年
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ルイス・ローランド・アローホ・アビラ(Luis Rolando Arrojo Avila , 1968年7月18日 - )は、キューバ共和国ビジャ・クララ州サン・ホアン・デ・ロス・イエラス出身の元プロ野球選手(投手)。右投げ右打ち。 1983-1984シーズンにキューバ国内リーグ"セリエ・ナシオナル・デ・ベイスボル"デビュー。そのシーズンの新人王
経歴
キューバ時代 - 亡命
ナランハス・デ・ビジャ・クララのエース級投手として1992-1993シーズンからのキューバリーグ3連覇に貢献した。1994-1995シーズンは86.0回を投げて無敗の11勝・防御率1.88を記録し、最優秀防御率のタイトルを獲得した。
金メダルを獲得した1992年8月のバルセロナオリンピック野球キューバ代表に選ばれた。1994年8月に開催された第32回ワールドカップでは11回・17奪三振の好投を見せるなど、キューバ代表として数多くの実績を挙げた[1]。
アトランタオリンピック野球キューバ代表の一員としてアメリカ合衆国のジョージア州オールバニで最後の調整中の1996年7月9日に宿舎から逃走し、妻と2人の子供を残して亡命した[2]。かつては「この世代で最も優秀な投手[3]」と賞賛していたフィデル・カストロ国家評議会議長だったが、翌10日に行われたアトランタオリンピックの壮行会では、選手団を前にアローホを「裏切り者」と切り捨て、「去りたければ去れば良い。我々はフィールド上だけでは無く、アメリカの富の誘惑とも戦わなければならない」と演説して選手達を鼓舞した[2]。亡命会見の席上、アローホの代理人は「高齢と見せ掛けて、誘いを無くそうとしたキューバ政府による情報操作だった」と発表。32歳と言われているが、実は28歳だったという事で、亡命翌日から4歳若返った。鉄矢多美子は1964年5月29日生まれと記載されたパスポートを見た事があり、亡命直前の1996年5月に日本遠征中のアローホと誕生日の盛大なお祝いをしたが、「1964年生まれで32歳」と言う彼のために32本のローソクを用意したという[4]。
コスタリカで居住権を確立した後、1997年4月21日にMLBのタンパベイ・デビルレイズと契約金700万ドルの3年契約を結び、入団した[5]。 1998年4月1日の対デトロイト・タイガース戦でMLB初登板。初登板では6回を投げて4失点したものの、勝利投手となった。平均91mph(約146km/h)の速球に切れのあるスライダーを武器に[6]制球良く打ち取るスタイルで活躍した。オールスターゲームにも選ばれ、チーム最多14勝・202.0回・防御率3.56の成績で新人王の投票では2位に入った[7]。 1999年は140.2回・防御率5.18と前年より大きく成績を下げ、特に左打者を抑えられずに苦しんだ。12月13日にビニー・カスティーヤとのトレードでアーロン・レデスマ
プロ入り後
2001年から中継ぎ投手として過ごした。2002年は中盤から肩や腰の痛みに苦しんで2度の故障者リスト(DL)入りを経験し[8]、12月21日にレッドソックスから放出された。
2003年はマイナーリーグのAAA級コロンバスで9.0回を投げ、このシーズン限りで現役を引退した。