ローマ皇帝
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ローマ皇帝アウグストゥス(オクタウィアヌス)

ローマ皇帝(ローマこうてい)は、紀元前27年元老院より「アウグストゥス(Augustus)」の称号を授与されたオクタウィアヌスと、この称号を帯びた彼の後継者たちを指して用いられる歴史学的な名称である。「ローマ皇帝」という単一の職位があったのではなく、資質と実績を認められた特定の人物が複数の重要な役職に就くことによって権力を独占している状態にあったことを意味する[要出典]。
概要ローマ皇帝クラウディウス

ローマ皇帝とは、古代ローマにおいて専制的な権限を与えられたオクタウィアヌスと、その後継者とみなされている人々を指して用いられる歴史学的な名称である。「ローマ皇帝」という単一の職位があったのではなく、資質と実績を認められた特定の人物が重要な複数の役職を兼任することによって専制的な権限を行使したものである。したがって、今日では一般的に紀元前27年にオクタウィアヌスが元老院より「アウグストゥス」の添え名を贈られたことをもってローマ皇帝の誕生とみなし、オクタウィアヌスを最初のローマ皇帝[注 1]としているが、実際にはアウグストゥスの添え名によって「ローマ皇帝」という新たな地位や官職が設けられたわけではない[2]。そもそも「皇帝」とは紀元前221年以降の中華文化圏において用いられた君主号であって、ローマ皇帝という訳語もオクタウィアヌス以降に「アウグストゥス」「カエサル」「インペラトル」等の様々な称号を名乗った人々に「ローマ皇帝」の語をあてているに過ぎず[2][注 2]、ローマにおける帝政は中国における帝政とは全く性質の異なるものであった[3]

ローマにおける帝政は、僭主政絶対王政とも似ていなかった[4]。ローマ皇帝はオクタウィアヌスが自著『神君アウグストゥスの業績録』で「余は権威においては万人に勝ったが、職権においては他の何人にも些かも勝らなかった」と記したように、君主ではなく共和政を尊重する市民の一人に過ぎないことが建前であった。ローマ帝国にとってローマ皇帝は所有者ではなかったし、継承者でもなかったのである[5]。ローマ皇帝が信任されるのは、その者がローマ皇帝として相応しい行動をしていると思われている間だけだった[6]ローマ人にとって、ローマ皇帝として相応しくなくなったと判断した人物をお払い箱にすることは全く正当なことだった[5]。ローマ皇帝の死後にも、その者を神格化するのか「記憶の抹消」の対象にするのかを決定するのは元老院であった[6]。そのため、ローマ皇帝にとってローマ市で人気があり市民から受けが良いことは極めて重要なことだったのである[5]

ローマ皇帝は職位や職権の寄せ集めに過ぎなかったため、その職務は極めて複雑で多忙なものとなった[7]。一方で、ローマ皇帝が職務・職位・職権として単一のものでなかったために、ローマ皇帝としての職務や権限は複数に分割して分担させることが可能であった。実際のところ、広大な版図を持つローマの全てを一人のローマ皇帝が管理することは困難であったから、次第に下位の補助者(カエサル)や同僚(アウグストゥス)に職務を分担させる慣行が普及した[8]3世紀ディオクレティアヌスによって複数のローマ皇帝による分担統治(テトラルキア)が組織化されると、以後のローマ帝国では複数のローマ皇帝による分担統治が常態化した。
「オクタウィアヌスのローマ皇帝権」の成立過程

終身独裁官となったガイウス・ユリウス・カエサル紀元前44年に殺害されると、その後に権力を握ったのはカエサル派のオクタウィアヌスマルクス・アントニウスマルクス・アエミリウス・レピドゥスの3人であった。3人は「国家を組織するための三人官」という例外的な職を設け、万機を総攬する強力な権限を行使した[9]。しかし紀元前32年にオクタウィアヌスとアントニウスとの対立が決定的となり、三人官制度は機能不全となった[9]。オクタウィアヌスは紀元前31年執政官に就任すると、執政官の権限を用いてアントニウスを追い詰め、紀元前30年にアントニウスを自殺へと追い込んだ[9]。以後オクタウィアヌスは紀元前23年まで連続して執政官を務め、これが紀元前23年までのオクタウィアヌスの実際的な地位と権限であった[9]

紀元前29年、オクタウィアヌスは元老院の許可を得て「インペラトル」の語を自身の個人名の一部とした[10]。オクタウィアヌスには紀元前43年以降たびたびインペラトルの称号が認められていたが[10]、称号としてのインペラトルの使用には有効期限が定められていた[10][11]。そこでオクタウィアヌスは「インペラトル」を個人名の一部とすることによって、自身を永続的にインペラトルと呼ばせることを可能としたのである[注 3]

紀元前27年、オクタウィアヌスは実質的には既に消滅していた三人官の職権を元老院に返却した[12]。元老院は政権を個人の手から市民へと返却した彼の判断を称え、オクタウィアヌスに「アウグストゥス(尊厳なる者)」の添え名[13]、一部の属州に対するプロコンスル命令権とを与えた[14][注 4]


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