ローマ歌劇場
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ローマ歌劇場


情報
種別歌劇場
開館1880年11月 (1880-11)
収容人員1,600人
所在地 イタリア ローマ
位置座標: .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯41度54分2.1秒 東経12度29分44.4秒 / 北緯41.900583度 東経12.495667度 / 41.900583; 12.495667
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ローマ歌劇場(イタリア語: Teatro dell'Opera di Roma)は、イタリアローマにある歌劇場1880年11月に開場した「コスタンツィ劇場」がその前身である。数度にわたる名称の変遷、改修工事を経て、現在は総席数約1,600の歌劇場である。日本語では「ローマ・オペラ座」とも呼ばれている。
歴史
コスタンツィ劇場(1880年-1926年

「コスタンツィ劇場」の名前はこの劇場を建てた施主、ドメニコ・コスタンツィ(1810年 - 1898年)の名に由来する。彼は私財をもってこの劇場を計画し、設計をミラノの劇場建築家アキッレ・スフォンドリーニに委嘱した。ローマ皇帝ヘリオガバルスの邸宅がかつてあった用地にこの新歌劇場は18か月で完成し、1880年11月27日、ロッシーニセミラーミデ』の上演で開場した。

スフォンドリーニは劇場の音響効果に留意し、馬蹄形の劇場内部構造全体が一種の共鳴室となるように計画した。席数2,212(2,293との異説あり)の劇場は3層のボックス席、その上部に壇式座席区画 (amphitheatre) 、さらにその上部に2区画の独立した天井桟敷を設けて、上にアンニーバレ・ブルニョーリの手になる美しいフレスコ画のドームを戴いていた。

ドメニコ・コスタンツィはこの歌劇場を自ら運営し、経済的困難はあったものの、数多くの世界初演を行うことができた。その代表が1890年5月17日、マスカーニカヴァレリア・ルスティカーナ』の大成功である。ドメニコの死後、その息子エンリコ・コスタンツィが運営を引き継ぎ、やはり著名作品、すなわち1900年1月14日、プッチーニトスカ』の初演を挙行した(『トスカ』自体ローマを舞台としており、ご当地オペラということになる)。

1907年にコスタンツィ劇場は支配人ヴァルテル・モッキ率いるSocieta Teatrale Internazionale e Nazionale (STIN) に買収され、1912年から1925年まではモッキの妻であるソプラノ歌手、エンマ・カレッリを支配人として興行が行われた。
王室歌劇場(1926年-1946年

1926年11月にコスタンツィ劇場はローマ市庁によって買収され、王室歌劇場 (Teatro Reale dell'Opera) と改称された。建築家マルチェッロ・ピアチェンティーニの設計による部分改築が行われ、15か月の休場の後、1928年2月27日、ボーイトの『ネローネ』によって再開場した。

この改築によっていくつかの大きな変化がもたらされた。「劇場通り」(Via del Teatro)として知られていた道路に面していた劇場入口は建物反対側に移された(旧入口は現在ではホテル・クイリナーレの庭園となり、新入口側には後に「ベニャミーノ・ジーリ広場」 (Piazza Beniamino Gigli) が造営された)。壇式座席区画は廃止され、ボックス席の4階部分およびバルコニーとされた。内装はスタッコ細工や装飾が新調され、また直径6メートルにも及び、27,000個ものクリスタルをちりばめた豪華なシャンデリアが吊るされた。

首都ローマの豪壮な都市計画を進行していたムッソリーニファシスト政権はこの王室歌劇場も精力的に梃入れした。


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