ローマ条約_(1924年)
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その他のローマ条約については「ローマ条約 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

ローマ条約(1924年)
署名1924年1月27日
署名場所ローマ
発効1924年2月22日
締約国イタリア王国ユーゴスラビア王国
主な内容#条項
関連条約ラパッロ条約 (1920年)
ネットゥーノ条約
条文リンク ⇒Text of the treaty
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ローマ条約(ローマじょうやく、英:The Treaty of Rome)は、1924年1月27日に合意された条約。イタリア王国ユーゴスラビア王国は、フィウーメはフィウーメ県としてイタリアに属し、スシャクの町はユーゴスラビア王国の一部と認めた。

フィウーメとスシャクは港湾施設の共同管理をすることになった。どちらの町も現在はクロアチアリエカにある。
背景フィウーメ郡(オレンジ)と一帯の土地(黄色)は、ラパッロ条約によってフィウーメ自由国に

フィウーメがガブリエーレ・ダンヌンツィオカルナーロ=イタリア執政府の支配下に入った後、1920年のラパッロ条約によりフィウーメ自由国が成立し、すぐにアメリカ合衆国、フランス、イギリスを含む他国に承認された。この国は法律上は4年、事実上は1年しか存在しなかった。また港の共同管理は決して成立しなかった。

1921年4月24日、議会の最初の総選挙が行われ、フィウーメ自治運動のリーダーであるリカルド・ザネッラ(英語版)が大統領に選出された。1922年3月3日、ファシスト議員のフランチェスコ・ジウンタ(英語版)が指揮した運動により、ザネッラは辞任を余儀なくされた。1923年9月17日、イタリアの将軍であるガエタノ・ジャルディーノ(英語版)が、イタリアのベニート・ムッソリーニ首相から、治安回復の任務を負って派遣された。その間に、イタリアとユーゴスラビア王国の間で、フィウーメ自由国を解散させるための交渉が始まった。

全ての政党は1924年2月22日にローマで条約を批准し、同日発効した。その後、条約は1924年4月7日に国際連盟条約シリーズに登録された[1]
条項

このローマ条約により、ラパッロ条約の一部が取り消された。

ユーゴスラビア王国は、スシャクの海港とフィウーメ州の北部を含むリエチナ川のデルタ地帯の主権を主張した。イタリアには、フィウーメ市、その周辺の土地、そしてイタリア本土に接続するための沿岸回廊が与えられた。
余波

国境の正確な決定は、共同管理の妨げになり、ゆえにネットゥーノ条約が1925年7月20日に合意された[2]

第二次世界大戦の激動に続いて、ティトのユーゴスラビアはフィウメを併合し、ローマ条約の規定に終止符を打った。
注釈^ League of Nations Treaty Series, vol. 24, pp. 32?89.
^ Accordi di Nettuno, Italia ? Regno serbo-croato-sloveno, 20 luglio 1925

外部リンク

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