ローマ帝国衰亡史
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『ローマ帝国衰亡史』(ローマていこくすいぼうし、英: The History of the Decline and Fall of the Roman Empire)は、18世紀イギリス歴史家エドワード・ギボンによって、古代ローマ帝国の衰亡を記述した歴史書の古典大作である。ウィンストン・チャーチルジャワハルラール・ネルーアダム・スミス等の著名人が愛読した事でも知られる。
概要

本書は第1巻が1776年に刊行されると多くの読者を集め、1781年古代ローマ帝国の滅亡までを描いた第2・3巻が刊行され、いったんは完結した。しかし後に読者からの要望に応えてローマ帝国の概念をギリシア帝国東ローマ帝国)にまで拡張し、1788年に続編となる第4・5・6巻が刊行された。

五賢帝時代(96年より180年)における古代ローマ帝国の最盛期から始まり、ローマ帝国の東西分裂、ユスティニアヌス1世によるローマ帝国再興の試み、勃興するイスラーム勢力との抗争、十字軍などを描き、オスマン帝国によるコンスタンティノープル陥落(1453年)によって東ローマ帝国が滅亡するまでを記している。ただし、7世紀の皇帝ヘラクレイオスの後からは極端に記述が減り、ギリシア化した東ローマ帝国については否定的な著述が目立つ。特に軍事面では「根本的な問題を抱えており、勝利は全くの偶然によるもの」とまで酷評している。このため、東ローマ帝国最盛期の皇帝バシレイオス2世などについても、ほとんど述べられていない。一方、キリスト教において否定的に捉えられてきたディオクレティアヌスを再評価し、暗にではあるがキリスト教を批判した点は注目に値する。
各章の概要
第1巻01 - 両アントニヌス帝時代(アントニヌス・ピウスマルクス・アウレリウス・アントニヌス)における帝国の版図とその軍事力02 - 両アントニヌス帝治下におけるローマ帝国の統一と国内繁栄について03 - 両アントニヌス帝時代におけるローマ帝国法体制について04 - マルクス・アウレリウス・アントニヌスの子コンモドゥス帝は親衛隊長と愛妾に暗殺された(在位12年)。05 - 皇帝位は競売で落札された。将軍出身のセプティミウス・セウェルス帝が就任(在位18年)。06 - セウェルス帝の子カラカラ帝は1兵士が暗殺(在位6年)。近親のアレクサンデル・セウェルス帝は13年の善政をしく。07 - 蛮族出身の将軍マクシミヌス・トラクスがセウェルス帝を殺し帝位に(在位3年)。彼以後、ディオクレティアヌス帝即位までが、いわゆる軍人皇帝時代。3世紀の危機。08 - 226年パルティア王国からアルダシール1世が独立、サーサーン朝ペルシア王国を興す。ゾロアスター教を国教化。09 - 3世紀半ばまでのゲルマニアの歴史。10 - デキウス帝はゴート族に敗死(在位2年)。260年、ワレリアヌス帝(ウァレリアヌス)はペルシアとのエデッサの戦いで捕虜となる(在位7年)。そのどさくさにシリアにパルミラ帝国が独立。11 - アウレリアヌス帝(ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス)はダキアを放棄、ゴート族をドナウ川の北に追い、ゼノビア女王のパルミラ帝国を平定(在位5年)。12 - プロブス帝も対ゲルマン戦闘に勝利、国境地帯に屯田兵制を提案。しかし屯田兵に殺された(在位6年)。13 - ディオクレティアヌス帝は解放奴隷の子。首都をアジア[注 1]ニコメディアへ。293年、帝国4分制(テトラルキア)。20年の治世後退位し、いち農民となった。14 - ディオクレティアヌス退位後は一時6皇帝が同時在位。コンスタンティヌス1世が他帝を倒し、324年に帝国統一。15 - キリスト教の発展、初代キリスト教徒の思想、風習、数、およびその状況。16 - ネロ帝期からコンスタンティヌス帝期まで、ローマ帝国政府の対キリスト教政策。ディオクレティアヌス時代に最後の大迫害。
第2巻17 - 330年ビザンチウムを首都とする。この都市はその後コンスタンティノープル(コンスタンティノポリス)と呼ばれる。18 - コンスタンティヌス1世は当時最長の30年間統治。その死後は3子で帝国を分割。19 - 次男 コンスタンティウス2世が再統一(在位4年)。生き残っていた甥、文学青年 ユリアヌスを副帝に任命。20 - コンスタンティヌス帝の改信(改宗)の動機。313年に信仰の自由を保証するミラノ勅令公布。


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