公用語イタリア語
首都ローマ
元首等
1798年2月 - 1799年カルロ・ルイージ・コンスタンティーニ(イタリア語版)
変遷
フランスの侵略1798年
ナポリの侵略1799年
現在 イタリア
ローマ共和国(ローマきょうわこく、イタリア語: Repubblica Romana)は、1798年から1800年の間に、イタリアのローマを中心に存在した共和国である。 1796年3月、フランス第一共和政の総裁政府はナポレオン・ボナパルトをイタリア方面軍司令官に任命し、イタリア戦役が開始された[1]。ナポレオンの軍はイタリア北部を席巻し、1796年5月10日のロディの戦いでオーストリア軍を破り、15日にはミラノに入城して旧ミラノ公国の領域を制圧した[1]。ミラノにはロンバルディア行政府が設置され、北イタリアでのパトリオット(愛国派)やジャコビーノ(イタリア・ジャコバン派)の活動の中心となった[1]。6月、ナポレオンは教皇国家北部のレガツィオーネ
経緯と概要
ときのローマ教皇ピウス6世はナポレオンに対し強く抵抗したが、ナポレオンは1798年2月、ローマ市の騒乱を口実にローマに兵を進め、教皇領全体の占領をはかった[2][3]。2月15日、フォロ・ロマーノに集まったローマ市民は教皇国家の権力崩壊とローマ共和国の成立を宣言した[3]。ナポレオン軍はこれを承認、さらにヴァチカンを占領してローマ教皇庁を制圧した[3]。ピウス6世はトスカーナに亡命したため、ここにローマにおける教皇の世俗支配は崩壊した[3][注釈 1]。ローマ共和国では、チザルピーナ共和国と同様にフランスの1795年憲法とほぼ同じ内容の憲法が採択され、立法府も設置されたが、実態はフランス軍の軍事支配に近いものであった[3]。
1798年11月28日、ナポリ軍がローマを占領するが、12月14日の戦闘の後、フランス軍はナポリに入城し、1799年1月23日にパルテノペア共和国を建国した。その後、9月19日にフランス軍はローマを一旦放棄するが、9月30日に再占領した。1800年6月にローマ共和国は廃止され、教皇国家が復活した。これは、1801年の政教協約(コンコルダート)にむけて新教皇ピウス7世とナポレオンとのあいだで妥協が成立したためであった。