ローマオリンピック
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方
出典検索?: "1960年ローマオリンピック" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2023年3月)

1960年ローマオリンピック
第17回オリンピック競技大会
Jeux de la XVIIe olympiade
Games of the XVII Olympiad
Giochi della XVII Olimpiade
開会式
開催都市 イタリア ローマ
参加国・地域数83
参加人数5,348人(男子4,738人、女子610人)
競技種目数18競技150種目
開会式1960年8月25日
閉会式1960年9月11日
開会宣言ジョヴァンニ・グロンキ 大統領
選手宣誓アドルフォ・コンソリーニ
最終聖火ランナージャンカルロ・ペリス
主競技場スタディオ・オリンピコ
夏季« 1956年メルボルン1964年東京 »
冬季« 1960年スコーバレー1964年インスブルック »
Portal:オリンピック
テンプレートを表示

1960年ローマオリンピック(1960ねんローマオリンピック)は、1960年イタリアローマで開催されたオリンピック競技大会

開会式・閉会式、ならびに各種目を含めた総入場券発行枚数は318万2122枚、収入総額は当時の為替レート換算で15億3707万412円に上った。
招致までの経緯

ローマは1908年の大会の開催地に決まっていたものの、財政的な理由で大会を返上しムッソリーニ時代にも第12回大会(1940年)の開催地に名乗り出たが、東京の強い要請を受けて最終的には立候補を降りていた経緯がある。

今回の大会の立候補地はローマの他、ローザンヌスイス)、ブリュッセルベルギー)、ブダペストハンガリー)、デトロイトアメリカ)、メキシコシティメキシコ)、東京日本)の7都市であった。1955年6月15日、第50次IOC総会において3回目の投票で最終的に35対24でローザンヌを押さえ開催地に決定した。

東京は1回目の投票でわずか4票にとどまり(他国の得票はローマが15、ローザンヌが14、ブダペストが8、メキシコシティが6、デトロイトが6、ブリュッセルが6。)、落選した。

1960年夏季オリンピック 開催地投票都市国1回目2回目3回目
ローマ イタリア152635
ローザンヌ スイス142124
デトロイト アメリカ合衆国611-
ブダペスト ハンガリー81-
ブリュッセル ベルギー6--
メキシコシティ メキシコ6--
東京 日本4--

ハイライト

ソ連1952年ヘルシンキオリンピック以来3度目の参加で、初めてアメリカを抜いて金メダル獲得数で首位に立った。以後、2つの超大国はスポーツでも競争を激化させていった。

ハンガリーアラダー・ゲレビッチが、6回連続となる金メダルを獲得する。

日本は次回1964年東京オリンピックの開催国として強化の途上にあったが、前回の1956年メルボルンオリンピックと並ぶ金4個になり、総数では18個(金4、銀7、銅7)と前回を1個下回った。男子体操では団体5連覇のスタートとなり、小野が2大会連続の金メダル獲得と活躍したが、前回金を獲得した競泳やレスリングで逃し、躍進にはもう一歩で終わった。

マラソンで優勝したアベベはローマのコースを裸足で駆け抜け、一躍有名になった。アベベの母国エチオピアにとっては、かつて自国へ侵攻したイタリアの首都における勝利という政治的な意味も持っていた。

自転車の男子団体ロードレースでは、デンマークの選手達がトレーナーから興奮剤アンフェタミンを投与されて出場した結果、レース後にヌット・エネマルク・イェンセンが死亡し、他2人が入院するという事件が起こった。これにより、国際オリンピック委員会(IOC)ではようやくオリンピックでのドーピング防止対策が本格的に検討されるようになった。

ボクシングライトヘビー級で金メダルを獲得したクレイ(後のモハメド・アリ)はアメリカに帰国後、レストランへの入店を黒人差別を理由に拒否されたことへの抗議として、金メダルを川に投げ捨てた話が有名になった(弟によると創作であるとのこと)。36年後、アトランタオリンピックでIOCはアリに改めて金メダルを授与した。

南アフリカ共和国のオリンピック参加は、このローマ大会を最後に途絶えることとなった。同国のアパルトヘイト政策に対する国際的批判がその原因で、同国の復帰はアパルトヘイト政策が中止され、黒人中心の新政権が発足した後の1992年バルセロナオリンピックまで32年間を要した。

前回の1956年メルボルンオリンピックの盛り上がらなかった閉会式の反省から、陸上は日程の後半となった。

イタリアでは全競技がテレビ放送された[1]

主な競技会場

スタディオ・オリンピコ

スタディオ・フラミニオ

スタディオ・オリンピコ・デル・ヌオート


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:57 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef