ロード・ダンセイニもしくはダンセイニ卿(Lord Dunsany、1878年7月24日 - 1957年10月25日)はアイルランドの小説家、軍人。フルネームは第18代ダンセイニ男爵エドワード・ジョン・モアトン・ドラックス・プランケット(Edward John Moreton Drax Plunkett, 18th Baron of Dunsany)[注 1]。
生涯を居城とする、いわゆる「アングロ・アイリッシュ(英語版)」と呼ばれる支配階級の出身である。ロンドンに生まれ、12歳の時父の死去により爵位を継承する。
成人後はイギリス陸軍に入隊。1899年に南アフリカでの第二次ボーア戦争に従軍しボーア人共和国と戦う。1901年に帰国、ロンドンに居を定め第7代ジャージー伯爵の娘ベアトリス・ヴィリアーズと結婚。
作家としての活動は、1905年の『ペガーナの神々』の自費出版より始まる。これはデーヴィッド・ベラスコとジョン・ルーサー・ロングの劇 The Darling of the Gods に触発されたものであり、翌年には『時と神々』を出版。
第一次世界大戦ではフランスなどへ出征。この頃の体験は後に Tales of War などの作品にまとめられる。1916年のイースター蜂起ではイギリス軍人としてアイルランド共和主義者の鎮圧に当たった。
戦後は長篇にも手を染め、1920年に『影の谷年代記』を発表。1924年の第2長編『エルフランドの王女』は好評を得た。後半生ではミステリーやユーモア小説の執筆が増え、短編ミステリ「二壜の調味料 (Two Bottles of Relish)」はエラリー・クイーンらの高評を受けてクイーンの定員にも選ばれる。
第二次世界大戦中は在住していたケント州にてドイツ軍の空襲から村を守る任務に付く。晩年はチェス三昧の暮らしを続けていたが、1957年に消化器疾患にて死去。遺言により同州のショアハム共同墓地に葬られた。
チェス・プレイヤーとしても高名で、ホセ・ラウル・カパブランカとの指導対局で引き分けたこともある[1]。チェス・プロブレムを『タイムズ文芸付録』紙にしばしば掲載していた[2]。 『ペガーナの神々』、『エルフランドの王女
作品
作風
ダンセイニはケルト文学復興運動(英語版)の旗手のひとりとしてレディ・グレゴリーやイェイツ、シングらとともに数えられもするが[3][4][注 2]、アングロ・アイリッシュ貴族でも保守派なため、グレゴリーやイェイツらとはそりがあわなかった[3]。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}アイルランドの出自や特定の文学活動や党派から距離を置く姿勢もあり、その活動はとは異なってアイルランド民族のアイデンティティにあまり肩入れしたものではなかった[要出典]。