ローゼ・アウスレンダー
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ローゼ・アウスレンダー
Rose Auslander
詩人ローゼ・アウスレンダー、1914年
誕生ロザーリエ・ベアトリーチェ・シェルツァー
Rosalie Beatrice Scherzer
(1901-05-11) 1901年5月11日
オーストリア=ハンガリー帝国, ブコヴィナ, チェルノヴィッツ
死没1988年1月3日(1988-01-03)(86歳)
西ドイツ, デュッセルドルフ
職業詩人、新聞編集者、銀行員、外国特派員
言語ドイツ語英語イディッシュ語ヘブライ語
市民権 西ドイツ, アメリカ合衆国
ジャンル表現主義新即物主義、現代詩
主題自然、故郷、ホロコースト、愛と死
代表作『盲目の夏』
活動期間1921年?1986年
配偶者イグナーツ・アウスレンダー (1923年10月19日 – 1925年)
パートナーヘリオス・ヘヒト (1927年–1934年)
ウィキポータル 文学
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ローゼ・アウスレンダー(Rose Auslander、1901年5月11日 - 1988年1月3日)は、ユダヤ系ドイツ人詩人で[1]ドイツ語英語で執筆した。出生名はロザーリエ・ベアトリイーチェ・シェルツァー[2]ブコヴィナチェルノヴィッツに生まれたが、その地は動乱の時代の中でオーストリア=ハンガリー帝国領、ルーマニア王国領、一時期はソビエト連邦領になった地域であり、1991年からはウクライナの領土である[3]。ローゼ・アウスレンダーは生涯をオーストリア=ハンガリー帝国、ルーマニア王国、アメリカ合衆国、そしてドイツで過ごした。
生涯
幼少期と教育、1901年?1920年

ローゼ・アウスレンダーはブコヴィナのチェルノヴィッツ(現在はウクライナのチェルニウツィー)で、ドイツ語を話すユダヤ人の家庭に生まれた。当時チェルノヴィッツはオーストリア=ハンガリー帝国の一部だった。父親のジークムント・シェルツァー(1871-1920)はチェルノヴィッツ近郊の小さな町出身で、母親のカティ・エティ・リフケ・ビンダー(1873-1947)はチェルノヴィッツのドイツ語を話す家庭の出身だった[4]。1907年に彼女はチェルノヴィッツの学校に入学した。当時はドイツ人、ウクライナ人、ルーマニア人、ユダヤ人などが共存し、平和な地域だった[5]。1916年に家族はロシア帝国陸軍を逃れてウィーンに移住したが、1920年にチェルノヴィッチに戻った。チェルノヴィッツは1918年にルーマニア王国領となり、チェルナウツィと呼ばれていた。

1919年、彼女はチェルナウツィで文学と哲学を学び始めた。この時期に知ったドイツのユダヤ人哲学者コンスタンティン・ブルンナー(英語版)に彼女は生涯興味をいだいた。1920年に父親が亡くなると、彼女は大学を中退した[5]
ミネアポリスとニューヨーク、1921年?1927年

1921年、彼女は大学時代の友人で後に夫となるイグナーツ・アウスレンダーと共に、アメリカ合衆国に移住した。ミネアポリスではドイツ語新聞『西のヘロルド』の編集者として働き、アンソロジー『アメリカーヘロルド-カレンダー』に参加して、最初の詩を発表した。1922年、彼女はアウスレンダーと共にニューヨークへ移り、そこで1923年10月19日に二人は結婚した。25歳になった1925年に彼女は離婚したが、アウスレンダーの姓は使い続けた[注釈 1]。1926年に彼女はアメリカ合衆国の市民権を獲得した[6]:7。連作詩集『ニューヨーク』(1926/27年)では、彼女の初期作品にみられた表現主義が、冷静に制御された新即物主義の言葉に代わっていた。彼女のバールーフ・デ・スピノザの思想への関心は、哲学者コンスタンティン・ブルンナー、プラトンジークムント・フロイトなどへ広がり、後のエッセイのトピックとなった[7]
チェルナウツィとニューヨーク、1926年?1931年

1926年、彼女は病気の母親の世話をするためにチェルナウツィの家に帰り2年間過ごした。そこで筆跡学者ヘリオス・ヘヒトと出会い、後にパートナーとなった。1928年に彼女はヘヒトと共にニューヨークへ戻った。詩をドイツ語新聞『ニューヨーカー・フォルクスツァイトゥング(英語版)』紙に発表し、チェルナウツィの社会主義日刊紙『フォアヴェルツ (チェルナウツィ)(英語版)』にも1931年まで詩を投稿していた[6]
チェルナウツィ、1931年?1945年

1931年、彼女は再び母親の看病のためにチェルナウツィに戻り、ドイツ語新聞『チェルノヴィッツ・モルゲンブラット』で1940年まで働いた。故郷にはかつてと違い、反ユダヤ主義、ファシズムが台頭していた[5]。1934年にアメリカの市民権を失ったが、それは3年以上アメリカに帰らなかったからである。その年にヘヒトと離婚した[6]

1939年の初め、彼女はパリとニューヨークを旅行したが、再び母親の看病のためチェルナウツィに戻った。その年、最初の詩集『虹』が、師であるブコヴィナの作家アルフレッド・マーグル=シュペルバー(ドイツ語版)の支援で出版された[6]。好意的な批評が出たが、一般には受け入れられなかった。印刷された本の大部分は1941年にナチス・ドイツがチェルナウツィを占領した時に破壊された[7]

1941年10月から1944年まで、彼女はチェルナウツィのゲットーでナチスの強制労働(英語版)に従事した。母親と兄弟2人もそこで共に2年間過ごし[7]、さらに1年間はナチスの強制収容所に送られないように隠れていた[6]。悲惨な現実の中で、彼女は詩を書き続けていた[8]

1943年春、アウスレンダーはチェルナウツィのゲットーで詩人パウル・ツェランと出会った。彼は後にアウスレンダーの1939年の詩の「黒いミルク」の印象を、彼の代表作『死のフーガ(英語版)』に使い、それは1948年に出版された。アウスレンダー自身はツェランの用法について、「全ての素材を自分の言葉に訳すのが詩人であり、偉大な詩人が私のささやかな詩に刺激を受けたは嬉しい」と言っている[9]。1944年4月、ブコヴィナはソビエト連邦の一部となった。アウスレンダーは1944年9月まで、チェルナウツィ市立図書館で働いた[6]
ニューヨーク、1944年?1966年

1944年10月、アウスレンダーは再びニューヨークに住み始めた。1947年に母親が亡くなり、アウスレンダーは体調を崩した[6]。1948年から1956年まで、彼女は詩を英語でのみ書き[10]、母語であると同時に殺人者の言葉であるドイツ語は使わなかった[8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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