この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "ローエングリン"
この項目では、ワーグナーのオペラ作品について説明しています。その他の用法については「ローエングリン (曖昧さ回避)」をご覧ください。
音楽・音声外部リンク
ローエングリン全曲
Wagner:Lohengrin, WWV 75(プレイリスト) - ポール・フライ(英語版)(ローエングリン)、シェリル・ステューダー(エルザ)、ガブリエレ・シュナウト(英語版)(オルトルート)、エッケハルト・ヴラシハ(英語版)(テルラムント)、マンフレート・シェンク(Manfred Schenk、ハインリヒ王)、アイケ・ヴィルム・シュルテ(英語版)(伝令)ほか、ペーター・シュナイダー指揮バイロイト祝祭管弦楽団・合唱団の演奏、Universal Music Group提供のYouTubeアートトラック
ローエングリン.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル クラシック音楽
『ローエングリン』(独: Lohengrin)は、リヒャルト・ワーグナーのオペラ。台本も作曲者によるもので、ローエングリンの伝説に基づき、10世紀前半のアントウェルペンを舞台とする。以降に作曲された楽劇(Musikdrama)に対し、ロマンティック・オペラと呼ばれる最後の作品である。第1幕、第3幕への各前奏曲や『婚礼の合唱』(結婚行進曲)など、独立して演奏される曲も人気の高いものが多い。 初演は1850年8月28日、フランツ・リストの指揮によりヴァイマル宮廷劇場で行われた。 日本での初演は1932年12月18日、東京音楽学校秋季大演奏会でのクラウス・プリングスハイム指揮、ヘルマン・ヴーハープフェニッヒらの出演による演奏会形式のハイライト上演である[7]。 『東寶十年史』(1944年発行)の綜合年表86頁によれば、1940年12月4日に日本劇場でドイツのテノール歌手カール・ハルトマン出演、東京交響管弦楽団の演奏による上演が記録されているが、「一場」と書かれており、舞台形式による全曲演奏かは不明である[8]。 舞台形式による本格的な初演は1942年11月23日、東京歌舞伎座で行われた藤原歌劇団の公演とされている。
作曲及び初演の経緯
ワーグナーの自伝『わが生涯』によれば、1839年から1842年にかけてワーグナーはパリに滞在し、クリスティアン・ルーカス(Ch. Th. L. Lucas)の編集した、1838年出版の『ヴァルトブルクの歌合戦』(Wartburgkrieg)に触れて歌劇『タンホイザー』の着想を得る[1]。このとき、論文の続きにローエングリンにまつわる叙事詩についての説明があり、これを読んだことが発端とされる。
1843年、ヨハン・ヴィルヘルム・ヴォルフが編纂した『オランダ伝説集』が出版される。このなかにコンラート・フォン・ヴュルツブルクによる『白鳥の騎士』[2]が含まれており、ワーグナーはこれを読んだと考えられている。また、ルートヴィヒ・ベヒシュタインのメルヘン集に「白鳥にされた子供たちの物語」[3]があり、このモチーフもワーグナーは利用することになる。
1845年6月、マリーエンバートに温泉治療のために滞在中、ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの叙事詩『パルチヴァール』やアルブレヒトの『新ティトゥレル』[4]の翻訳・再話、作者不明の叙事詩『ローエングリン』[5]に付せられたヨーゼフ・ゲレスの長大な序文(100頁近い「論文」)などを読んで、歌劇の構想を固める[6]。同時に、これらの知識は後の楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』や『パルジファル』の基盤ともなった。また、ヤーコプ・グリム『慣習法令集』や同『ドイツ伝説集』から、オルトルート像を創造したとされる。
1845年8月、台本の散文スケッチ完成。このときのスケッチには、第3幕でゴットフリートの姿に戻る白鳥の歌も書かれていたが、後にこれは取り消される。
1845年11月、前作『タンホイザー』のドレスデン初演。この直後に『ローエングリン』台本も完成する。同月、ワーグナーは友人たちを集めて『ローエングリン』の台本朗読会を開く。このとき同席した友人には、建築家のゴットフリート・ゼンパー、ピアニストのフェルディナント・ヒラー、作曲家のロベルト・シューマンらがいた。朗読は友人たちに感銘を与え、シューマンは、この台本が従来の番号付きオペラでは収まらないことを理解したという。
1846年、春から作曲にかかる。3ヶ月でスケッチが完成し、9月からオーケストレーションにとりかかる。しかし、ドレスデン歌劇場の仕事のために中断を余儀なくされる。
1847年、8月に全3幕のオーケストラ・スケッチが完成。
1848年、1月から4月にかけて総譜を浄書。
1849年、ゼンパーや無政府主義者ミハイル・バクーニンらとともにドレスデンの5月蜂起に参加。しかし革命運動は失敗し、指名手配されたワーグナーはリストの助けを得て、スイスのチューリヒに亡命する。
1850年、リストの尽力によって、『ローエングリン』がヴァイマルで初演の運びとなる。ワーグナーはなんとか初演を見たいと潜入を画策するが、リストに制止されて断念。この前後、『ローエングリン』の初演を巡って、ワーグナーとリストは頻繁に手紙を交わしている。結局ワーグナーが全篇上演を見ることがかなったのは1861年のことで、ヨハン・シュトラウス2世がワーグナー紹介に努めたウィーンでの宮廷歌劇場による舞台であった。
初演