ロン・キリングス
[Wikipedia|▼Menu]

Rトゥルース

プロフィール
リングネームRトゥルース
ロン・キリングス
Kクイック
Kクラッシュ
本名ロニー・アーロン・キリングス
ニックネームザ・トゥルース
身長188cm
体重100kg
誕生日 (1972-01-19) 1972年1月19日(52歳)
出身地 アメリカ合衆国
ノースカロライナ州シャーロット
所属WWE
トレーナーマニー・フェルナンデス
デビュー1997年
テンプレートを表示

ロン・キリングス(Ron Killings、1972年1月19日 - )は、アメリカ合衆国プロレスラーノースカロライナ州シャーロット出身のアフリカ系アメリカ人[1]。アメリカのプロレス団体であるWWEにRトゥルース(R-Truth)のリングネームで所属。
来歴

アトランタ生まれだがノースカロライナ州シャーロットで育つ。家庭には常時の仕事では収入が乏しく、父親はマリファナを売りさばいて貧困な家計を繕っていた。父親の仕事を手伝う傍ら、キリングスはミュージシャンになることを決意。シャーロット移動後はヒップホップブレイクダンスに魅了され熱中していった。

高校入学後は陸上選手やアメリカンフットボールで優秀な成績を収めた。また、彼の居たアメフトチームには元メジャーリーガーのレイ・ダーラムも所属していた。高校側から奨学金を薦められるほど優秀なスポーツマンとして活躍していたが、ミュージシャンの道を進むために16歳で高校を中退。中退後には全米の大物ラッパー(当時、現在も伝説的ラッパーとして知られる)2パック、元N.W.A.Eazy-Eと出会い、彼らからの影響でミュージシャンではなくラッパーとしてのキャリアに傾向していくことになる。

以降、タレント・エージェンシーのIce productionに所属し、小規模ながらキャリアを開始。録音スタジオへの支払いのためにドラッグ・ディーラーとして実に3年もの間ドラッグを密売し、自身のデビューアルバムの製作に取り掛かっていた。その後、自身のアルバムにレーベルが興味を示し声をかけられる。アルバムを完成させるための金融資本が必要となったキリングスは最後のドラッグディールで金を手に入れようとしたが、親友の通報によって警察に逮捕され、1年と1か月の間収監されることになる。

保釈後は更生施設へと送られるが、この際にNWAの雇用部門担当ジャッキー・クロケットと出会う。クロケットはキリングスにプロレスラーになることを薦めたが、当の本人はラッパーとしての成功を諦めずにいたため断っている。キリングスは音楽活動を2年間続けたが(今度はドラッグ・ディーラーからの金の窃盗でなんとか音楽活動を維持していた)自身のライフスタイルに嫌気が差し、以前プロレスの道を紹介してくれたクロケットに連絡を入れ、プロレスラーとしての活動に興味を示し始める。
プロレスのキャリアの始まり

クロケットは当時WCWの第一撮影技師であったため、キリングスをWCWを始め数々のプロレスのプロモーションに紹介した。その甲斐もあってキリングスは1997年にPWFでマネージャーとしてプロレス界にデビューする。その後3年間、各地を渡り歩きながらマニー・フェルナンデス1980年代NWA圏で活躍したメキシコ系アメリカ人のプロレスラー)のもとでトレーニングに励み、1999年12月12日にNWAワイルドスライドでKクラッシュ(K-Krush)のリングネームでプロレスラーとしての正式なデビューを果たす。このデビュー戦でキリングスは、新設されたばかりのNWAワイルドスライドTV王座を初代王者として獲得。その後2000年の1月8日には同タイトルをAJスタイルズ(後にWWEで活躍)に奪われている。
WWF時代

NWAワイルドスライドのリック・マイケルズに薦められ、キリングスは自作のプロモーショナル・ビデオをWWE(当時WWF)に送付。これが上層部の目に止まり、早速デベロップメント契約を結ぶことになる。その後、当時WWEのファーム団体であったMCWに所属。4月12日に行われた興行では同団体の管理する最高王座で、空位となっていたMCW南部ヘビー級王座をバトルロイヤルに勝ち抜いて獲得。しかし翌月の24日、RAWの実況担当でもあるジェリー・ローラーにタイトルを奪われてしまう(当時のMCWはWWEの興行に帯同する形で活動していたため、WWEに所属するレスラーが定期的に出場していた)。しかし、数か月後にはタイトルの奪回に成功。この功績をWWFの首脳陣に高く評価されたため一軍昇格が決定。リングネームをKクイック(K-kwik)と改め、2000年11月13日のRAWのウィリアム・リーガルロード・ドッグの試合に乱入しリーガルを強襲。若手の黒人ベビーフェイスとしてWWEデビューを果たした後、プロレスラーになる以前に目指していたラッパーのギミックで自作のラップをパートナーになったロード・ドッグと共に披露し始めるようになる。

デビューから1週間も経たずして、同月の11月13日に自身にとって初めてのPPVであるサバイバー・シリーズへ出場。第2次D-ジェネレーションXの元メンバー、ロード・ドッグ、ビリー・ガンチャイナと組みラディカルズ(クリス・ベノワエディ・ゲレロディーン・マレンコペリー・サターン)とサバイバー戦で対決するも敗退。翌月のPPVアルマゲドンではロード・ドッグと組みWWF世界タッグ王座を賭けた8人タッグ戦に出場するがタイトルを奪うことは出来なかった。

その後、ロード・ドッグが謹慎処分となったためキリングスはシングルレスラーへ転向。2001年1月に行われたロイヤルランブルへも出場するがビッグ・ショーによって脱落させられている。以降は同団体のハードコア部門に定着。2月3日にはレイヴェンの保持していたWWFハードコア王座を獲得するも、その日限りでクラッシュ・ホリーにタイトルを奪われてしまう。その2日後に再びレイヴェンを下し2度目の載冠を果たすが、これも数時間後にはクラッシュに奪取された。その後は鳴かず飛ばずの状態が続き、2001年9月にWWEを解雇される。
TNA

XPWでの短い活動を経てキリングスはTNAと契約を果たす。2002年6月12日にかつてのリングネームKクラッシュでデビュー。ヒールとして活動していたがスポットを浴びる機会には恵まれず、7月17日にロン "ザ・トゥルース" キリングス(Ron "The Truth" Killings)とリングネームを変更し、「自分が活躍できないのは人種差別が存在するからだ」などと主張、同年8月にはケン・シャムロックを下し団体の最高王座であるNWA世界ヘビー級王座を獲得(黒人レスラーの同王座獲得は、旧NWAを含めたNWA世界ヘビー級王者としては史上初(かつ唯一[2])である)。以降はベビーフェイスとして、WWF時代のパートナーだったロード・ドッグ改めBGジェイムスコナンとのユニット「3ライブ・クルー(3Live Kru)」などで活躍。NWA世界タッグ王座を2度、TNA世界タッグ王座を1度、そしてNWA世界ヘビー級王座も再度獲得したが、2007年12月にTNAを自主退団した。
WWER-Truth in 2008

2008年にキリングスは再びWWEと契約を結ぶ。7月25日より彼がRトゥルース(R-Truth)のリングネームでスマックダウンにてデビューをするという告知プロモーションビデオが番組内で流され始め、8月29日にケニー・ダイクストラを相手にデビュー戦を飾った。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:77 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef