ロンボク島
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ロンボク島

所在地インドネシア
所在海域小スンダ列島
座標南緯8度33分54秒 東経116度21分04秒 / 南緯8.565度 東経116.351度 / -8.565; 116.351 (ロンボク島)座標: 南緯8度33分54秒 東経116度21分04秒 / 南緯8.565度 東経116.351度 / -8.565; 116.351 (ロンボク島)
面積4,725 km²
海岸線長- km
最高標高3726 m
ロンボク島 (インドネシア)インドネシアの地図を表示ロンボク島 (小スンダ列島)小スンダ列島の地図を表示
OpenStreetMap
プロジェクト 地形
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ロンボク島

ロンボク島 (Pulau Lombok) は、インドネシア中部の小スンダ列島に属し、バリ島の東隣にある島である。人口約270万人、行政区分は西ヌサ・トゥンガラ州に属し、州都マタラムの所在地である[1]

「ロンボク」とはインドネシア語で「唐辛子」という意味を持つが、元々はロンボク島東部地域の呼称であり、先住民であるササク人は「スラパラン(Selaparang)」と呼んでいた[2]目次

1 地理

2 歴史

2.1 地震


3 人口

4 行政区分

5 観光

6 交通

7 脚注

8 関連項目

地理

ロンボク島は南北、東西ともに約80キロメートルのであり、西側にはバリ島、東側にはスンバワ島が隣接する。一年の内4月から9月が乾期、10月から3月までが雨期にあたる。雨季と乾季の降水量の差は大きく、バリ島と比較して乾燥している[2]農業牧畜が盛んで、コーヒーを産出する。

北部には火山湖であるスガラアナック湖を中心とした火山帯がある。インドネシア第二の活火山リンジャニ山 (3726メートル)がそびえ、乾期には南麓にサバンナが展開している。

島の中央は東西56キロメートル、南北25キロメートルの平野となっており、島の人口のほとんどがこの地域で生活している[2]。西ロンボクと呼ばれる水が豊富で肥沃な北東部では主に水田耕作が営まれている。東ロンボクと呼ばれ、歴史的にその属領であった南東部にはムスリムであるササク人が居住する。2つの地域の間にはジュリン(Juring)と呼ばれる深い森林帯がある。島の南部はマレシェ山 (716メートル)をピークとする、標高300から400メートルの丘陵帯が東西に延びている。

西隣のバリ島との間のロンボク海峡は大型タンカーの重要な航路で、生物分布上のウォーレス線が通っている。
歴史

紀元前6世紀ごろにロンボク島南部にバリやスンバと同系の人類が居住していたことが、考古学調査によって判明している[2]9世紀から11世紀にかけて東ロンボクにインド・ビルマ系のササク人が移動し王国を築いた。ササク人の伝説では、マジャパヒト王国の王子ラデン・マスパヒトがバトゥ・バラン王国という国を建てたといわれ、この国がロンボクの別名であるスラパランと考えられている[2]。その後、13世紀にはジャワ人勢力がクダロ国を建てたといわれる。

マジャパヒト王国の叙事詩『ナーガラクルターガマ』によれば、マジャパヒト王国のジャワへの侵攻は1343年に行われ、翌年にはロンボク島に影響が及び、スラパランやクダロを隷下に収めた[2]。マジャパヒト王国崩壊後、ロンボク島は小王国が林立する状態となる。15世紀前半にロンボク島でイスラム教による最初の改宗運動が行われ、部分的な成功を収めた。

17世紀初頭にカランガスム王国がロンボク島にマタラムチャクラヌガラなどの植民地を作り、影響力を強めていた。しかし、同時期にスンバワのマカッサル族が東ロンボクに進出し、ロンボク島は1849年ロンボク戦争終結まで、長期にわたる抗争の場となった[2]


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