ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
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ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団」あるいは「ロンドン交響楽団」とは異なります。

ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
London Philharmonic Orchestra
本拠地のロイヤル・フェスティバル・ホール
基本情報
出身地 イギリスイングランドロンドン
ジャンルクラシック音楽
活動期間1932年 -
共同作業者ロンドン・フィルハーモニー合唱団
公式サイトwww.lpo.org.uk

メンバー音楽監督
エドワード・ガードナー
首席客演指揮者
ヤニック・ネゼ=セガン
コンポーザー・イン・レジデンス
マーク=アンソニー・タネジ
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ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団(ロンドン・フィルハーモニーかんげんがくだん、英語: London Philharmonic Orchestra)は、イギリスロンドンに本拠を置くオーケストラで、イギリスを代表するオーケストラのひとつ。英語表記のLondon Philharmonic Orchestraの頭文字をとってLPOと表記されることもある。楽員数70(2018年現在、公式サイトによる)。

19世紀に創設されたロンドン・フィルハーモニック協会(ロイヤル・フィルハーモニック協会)とは直接の関係はない。
概要・歴史
創立期

1932年BBC交響楽団の常任指揮者就任がかなわなかったトーマス・ビーチャムがBBC響に負けないオーケストラを作ろうと、自らの私財を投げ打ち設立した。初コンサートは同年10月7日R.シュトラウスの『英雄の生涯』を中心としたプログラムで行われ、設立当初から同団はロンドン有数のオーケストラという評価を受ける。

しかし第二次世界大戦が勃発すると、ビーチャムは楽団運営を放棄してアメリカへ渡り、楽団は存続の危機に陥ってしまう。残された楽員たちは協議の末、自主運営団体として再出発することを決め、指揮者マルコム・サージェントに協力を求め、戦時中の苦難の時代を乗り切る。

第二次大戦終結後は、BBC音楽部長も務めたイギリス指揮界の重鎮エイドリアン・ボールト、新進気鋭の指揮者だったジョン・プリッチャードがそれぞれ首席指揮者を務める。プリッチャード時代の1964年からグラインドボーン音楽祭への出演を開始し、オーケストラ・ピットに入ってオペラを演奏している。同音楽祭は約3か月に及び、新作と再演を数演目ずつという歌劇場シーズンの半分に匹敵するスケジュールを持っているため、コヴェント・ガーデン王立歌劇場管弦楽団が定期的なコンサート活動を持たない現在においては、同団は実質的に、ロンドンでは唯一のコンサート・オペラ兼業団体といえる(ただし、近年は古典派オペラについてはピリオド・オーケストラが起用される例が多く、ロンドン・フィルの出演比率は下がっている)。
ハイティンク時代(1967年 - 1979年)

オランダの名門オーケストラ、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の首席指揮者を務めていた同国出身の指揮者ベルナルト・ハイティンクが、1967年から首席指揮者になる。ビーチャムによる創設からずっとイギリス人指揮者を迎えていたこの楽団が迎えた初めての外国人指揮者である。

この時期ハイティンクは、母国オランダのフィリップス・レーベルに精力的にレコーディングを行い、著名作曲家の交響曲全集を次々と録音していた。それらの多くはコンセルトヘボウ管弦楽団との録音だったが、ハイティンクはロンドン・フィルともたくさんのレコーディングを行った。代表的なものは1974年から1977年にかけて録音されたベートーヴェン交響曲全集・ピアノ協奏曲全集(ピアノはアルフレッド・ブレンデル)であり、そのほかにもリスト交響詩全集・ピアノ協奏曲集、メンデルスゾーンの交響曲全集などがある。そして旧西側初の試みとなったショスタコーヴィチの交響曲全集もコンセルトヘボウ管と分担して録音した。ショスタコーヴィチの全集のみ、イギリスのデッカが録音を担当している。イギリスの「お国もの」であるヴォーン・ウィリアムズの交響曲全集(EMI)、エルガーの『エニグマ変奏曲』(フィリップス)なども録音しており、『エニグマ変奏曲』はのちに楽団の自主制作レーベル「LPO」からライブ盤もリリースされた。

この時代のロンドン・フィルの録音を聴くと、コンセルトヘボウ管と似た柔和で上品な表現が加わり、ハイティンクのオーケストラ・ビルダーとしての実力の高さがうかがい知ることができる。ハイティンクは離任後もグラインドボーン音楽祭などで同団と親密な関係を続けた。ハイティンクからショルティの時代にかけてロンドン・フィルはコンセルトヘボウ管、シカゴ交響楽団という、しばしば世界一と讃えられる名門オケとの兼任指揮者を戴くことになり、大きな自信を抱くことになった。2人の指揮者はレコーディングにおいて両手兵を適時適所に使い分けることになり、上述のショスタコーヴィチ交響曲全集などは典型である。
ショルティ時代 (1979年-1983年)

ハイティンクの後任に選ばれたのは、ハンガリー生まれの指揮者でシカゴ交響楽団音楽監督も務める、戦後長らくのドイツ国籍を経て1972年にイギリスの市民権を得ていたゲオルク・ショルティだった。ショルティは1938年、25歳の時に同郷の先輩指揮者アンタル・ドラティの引き合わせでコヴェント・ガーデン王立歌劇場のオーケストラ・ピットに入ったロンドン・フィル(当時は歌劇場管弦楽団は存在しなかった)を初めて指揮して以来41年間、たびたび客演を続けていた。

レコーディングはショルティが契約していたデッカを主として行われ、エルガーの交響曲全集とホルストの組曲『惑星』、それにリストの交響詩『前奏曲』などが録音された。またモーツァルトの『フィガロの結婚』などのオペラ作品も録音された。

ショルティは4年間のみの在任だったが、安定した関係の中でも、演奏旅行中にショルティだけ一等席で移動するなど、必ずしも楽員と和気藹々だったわけではなく、オーケストラの次のターニング・ポイントであるテンシュテットの時代へと引き継がれていく。
テンシュテット時代(1983年 - 1987年)

東ドイツから西ドイツに亡命し、キールを本拠に活動を始めたばかりだった指揮者クラウス・テンシュテットがロンドン・フィルとマーラー交響曲第1番を録音したのは1977年のことだった。

EMIから発売されたこの録音を聴いたカラヤンがその演奏を激賞し、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮台へ招いたというエピソードがあるが、テンシュテットの能力と才能に驚いたのはロンドン・フィルも同じだった。彼らの距離は次第に縮まり、1983年には首席指揮者に招かれる。

それまでの楽団の伝統にはなかったマーラーの音楽という新風を吹き込み、次々にスタジオ録音が行われ、『大地の歌』を含む交響曲全集やオーケストラ伴奏つき歌曲が録音され、次々に発売された。


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