ロンドンの大疫病
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1665年の大流行当時、葬儀のため遺体を回収している場面。

ロンドンの大疫病とは、1665年から1666年まで続いたイングランドで起こった歴史上、最後の腺ペストの大流行である。

1331年中央アジアで起きた黒死病から、1750年まで続いた肺ペストの流行まで数世紀続いた第二次ペスト大流行の最中に発生した。[1]ロンドンの大疫病では18か月で当時のロンドンの人口の1/4である10万人の死者が発生したと推定されている。[2][3] ペスト菌が原因菌であり、[4]通常ネズミやノミの咬傷から感染する。[5]

1665年から66年の流行は黒死病と比べ規模ははるかに小さかったが、イングランドにおいて、第二次ペスト大流行の中で最大の流行であったため、「大疫病」として記憶されている。[6][7]
1665年当時のロンドン木版によるロンドンの地図, 1560年代。ヴェンツェスラウス・ホラーによるロンドンの地図、1665年頃。

この時代の他の西欧の都市同様、17世紀のロンドンにおいてもペストは風土病として存在していた。[8] この疫病は周期的に大規模な流行を起こした。1603年の流行では3万人、1625年には3万5千人、1636年には1万人の死者が発生し、規模は小さいが同様の流行がしばしば起きた。[9][10]

1664年の暮れ、明るい彗星が空に現れ、[11] ロンドンの住民たちは恐れ、彗星の出現が暗示する凶事とは何か疑問に思った。 当時のロンドンは448エーカーの市域と侵入者を防ぐ城壁からなる都市であった。ラドゲート、ニューゲート、アルダーズゲート、クリプルゲート、ムーアゲート、ビショップスゲートに城門があり、ロンドン南部にあるテムズ川にはロンドン橋が掛かっていた。[12] ロンドンでも貧しい住民が住む地域の過密な長屋の中では、衛生の維持は不可能であった。 下水設備はまったくなく、曲がりくねった街路の中央に設けられた開渠に流されていた。道路に敷かれた丸石は馬車から出る泥や糞で滑りやすく、夏には蝿がうなり、冬には排水溝を満たした。 ロンドン市は「掃除人」を雇い、特にひどくたまった汚物を城壁外へ運びだし、汚物はそこに溜り、腐敗していった。ひどい悪臭のため、街路を歩く人はハンカチや花を鼻孔に押し付けていた。[13]

石炭等のロンドン市の必需品の一部ははしけで運ばれていたが、大半は陸路で輸送されていた。陸路は荷車や幌馬車、騎馬や歩行者で込み合っており、城門の受け入れ能力がロンドン市の成長のボトルネックとなっていた。19のアーチからなるロンドン橋はさらに混雑していた。暮らしに余裕がある人たちは、汚物で汚れないように、目的地まではハックニーキャリッジと呼ばれる辻馬車や、椅子かごを使った。徒歩の貧民は車が巻き上げる泥や、屋根から捨てられる泥や水で汚れる恐れがあった。石けん工場や醸造場製鉄所、石炭を使う1万5千の家から生じる息を詰まらせる黒煙の危険もあった。[14]

ロンドンの城壁の外では、すでに過密な市内で群れをなす職人や商人の居住区が広がっていた。木造の掘っ立て小屋が広がるスラム街で、そこには衛生はまったくなかった。政府はスラム街の拡大を規制しようとしたが失敗し、およそ25万人が住んでいた。[15] 共和政期に逃亡した王党派の立派な住宅を引き取って使っている移民もいたが、それぞれの部屋は別の家族が住んでおり、長屋のようになってしまった。そのような居住区はすぐに取り壊され、ネズミで汚染されたスラム街となった。[15]

ロンドン市の行政府はロンドン市長、参事会員、市会議員によって組織されていたが、一般にロンドン在住とみなされる領域すべてが法的にロンドン市とされるわけではなかった。ロンドン市内と市外どちらにもさまざまな面積の歴史的に自治が認められている自由区域という行政区画があった。その多くは教会と関連していたが、ヘンリー8世による修道院の解散を経て廃止された区に関しては、土地所有権と同じように歴史的権利も移譲された。 城壁に囲まれたロンドン市と、ロンドン市の統治下にある市外を囲む自由区域は、「シティ・アンド・リバティーズ」と呼ばれていたが、さらに様々な行政府によって統治される郊外に取り囲まれていた。ウェストミンスターは独自の自由区域を持つ独立した町であったが、都市化に伴いロンドン市に組み込まれた。ロンドン塔も独立した自由区域であり、その他の自由区域も同様である。テムズ川の北の地域で自由区域に属さないものはミドルセックス州政府の統治を受けており、テムズ川南部の地域ではサリー州政府の統治下にあった。[16]

この時代、腺ペストは現代よりずっと恐れられていたが、その原因はわかっていなかった。大地から発散されている「悪疫性放散物」や、異常な気候、家畜の病気や、奇妙な動作、モグラ、カエル、ネズミ、ハエの数の増加によると軽信する人々もいた。[17] アレクサドル・イェルシンがペスト菌を同定し、この細菌の感染によって生じ、ネズミノミに媒介されることが知られるようになったのは1894年のことだった。[18] ロンドンの大疫病は長年ペスト菌による腺ペストだと信じられており、2016年のDNA分析によってそのことが証明された。[19]
死者の記録

調査員も参照。

流行の激しさを判定するため、大流行が起きた当時の人口を把握する必要がある。公的な人口調査記録は存在しないが、同時代の信頼できる文献として王立学会でも最初期の王立協会フェローで、人口統計学者の一人でもあるジョン・グラントの報告があり、統計の処理に科学的方法を取り入れている。 1662年、彼は毎週首都で発行される死亡表から、ロンドン市、自由区域、ウェストミンスター地区、外教区の人口は38万4千人と予想した。これらの様々な統治機構を持つ種々の区が公式に全体としてロンドン市を構成していた。1665年に彼は予想を「46万人を超えない」に修正した。ほかの同時代文献はもっと大きな数字を予想していた(たとえばフランスの外交官は60万とした)が、統計学的根拠があるわけではなかった。ロンドン市の次に大きな都市はノリッジで、人口は3万だった。[15][20]

当局の人間に死亡を報告する義務は全くなかった。その代わり、それぞれの教区では2人かそれ以上の死体を調査し、死因を決定する義務を負う調査員を任命していた。「調査員」は死亡を報告する毎に遺族より少額の手数料を徴収する資格が与えられていたので、教区では任命しなければ貧困のため救貧税による支援が必要となりそうな人間を割り当てていた。通常、このため「調査員」には非識字で騙されやすい高齢の女性が任命され、疾患の特定についての知識はほとんど期待できなかった。[21] 「調査員」はその区域の埋葬を担当する教区管理人か、教会の鐘を鳴らす人から、死亡と取扱いについて学んでいた。 クエーカーアナバプテスト、その他イギリス国教会に属さないキリスト教徒やユダヤ人のような、その地域の教会に死亡を報告しなかった人々は、公的記録から漏れることがしばしばあった。大疫病期の「調査員」は地域社会から離れて生命を維持することを求められ、他の人々との接触を避け、屋外にいるときは役職を示す白い棒をもち警告し、その職務外の時間は疫病を拡散させないよう、室内にとどまる必要があった。 「調査員」は教区庶務係に報告し、庶務係はブロード街にある教区庶務会”company of Parish Clerks”に毎週報告書を作成した。数字はロンドン市長に報告されていたが、疫病が国内で懸念されるほど広がった時は、大臣にも報告されていた。[21] その報告をもとに、死亡表が作成され、それぞれの教区での死者の数と疫病で死んだかどうかが記載されていた。この「調査員」が死因を報告するシステムは1836年まで続いた。[22]

グラントは「調査員」が死の真の原因を特定する能力を持たず、医師によって識別しうるほかの疾患ではなく、しばしば「消耗」とされていることを記録している。また1杯のエール、あるいは手数料を倍のグロート銀貨2枚払えば、「調査員」が死因を居住者にとってもっと好都合なものに変えてしまうことも示した。 教区庶務係を含め、誰もが疫病で死んだ人間が出たことを知らせたくなかったため、公的な報告書の上で疫病での死亡例をごまかすことは黙認されていた。真の死因を意図的に変えて報告することで、流行していた期間の死亡表の分析では、疫病以外の死亡が平均よりはるかに多く生じていた。[22] 疫病が広まるにつれ検疫が導入されたが、それは疫病死が発生した家は40日間締め切られ、出入りを一切許さないというものであった。この検疫による閉じ込めはしばしば無視され、疫病でなかったとしても他の居住者の死につながったほか、疫病を報告しない強力な動機となった。 公式の報告書では68596人が疫病で死亡したと記録されているが、合理的な根拠を踏まえると3万は過少に報告されていると考えられている。[23]疫病が発生した家は「主よ、憐れみたまえ」との文字と赤い十字の目印をつけられ、出入りを監視する監視人が付いた。


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