ロレーヌ公(仏:duc de Lorraine)またはロートリンゲン公(独:Herzog von Lothringen)は、現在はフランス領となっているロレーヌ(ロートリンゲン)地方に存在したロレーヌ(ロートリンゲン)公国の君主。初期はフランク王国の部族大公であり、ロートリンゲン大公(ロタリンギア大公)とも呼ばれるが、訳語の違いに過ぎない。フランスとドイツの国境に位置し、歴史的にもフランス王国と神聖ローマ帝国との間で帰属の変遷があり、日本語での呼称はフランス語に基づくものとドイツ語に基づくものが混用されるほか、称号自体も時代によって定訳が(「大公」と「公」で)異なる。 ロレーヌ/ロートリンゲンの名は直接には、カロリング朝フランク王国が分裂した際、中フランク王ロタール1世の次男ロタール2世に与えられた領土ロタリンギアに由来する。これはさらに「ロタールの王国」(Lotharii Regnum)に由来する。その領域はおおよそライン川の左岸全てと現在のベネルクスに及んでいた。カール大帝の宮廷のあったアーヘンや、トリーア、マインツ、ケルンなどを含む、フランク王国の中心地域であった。 ロタール2世が死ぬと、メルセン条約でロタリンギアは東西フランクに分割されたが、880年のリブモント条約で全域が東フランク王国領となり、東フランク王家がロタリンギア王となった。しかしロタリンギア王ツヴェンティボルトは在地貴族のレニエ家のレニエ1世と対立し、899年のサン・ゴアール条約により西ロタリンギアは西フランク王国のものとなった[1]。911年の東フランクのカロリング朝断絶以後の混乱により、東フランクの各地では領域統合が進行した。ロタリンギアでもこの頃から有力者が登場し、それら在地貴族は西フランク王国への帰属を決めたが[2]、923年、925年と東フランク王ハインリヒ1世はロタリンギアに侵攻し、最終的に925年または928年にハインリヒ1世よりレニエ家のギゼルベルトが正式にロタリンギア大公(ロートリンゲン大公)に任ぜられ、ロタリンギア(ロートリンゲン)の東フランクへの帰属が決定した[3]。 939年、ロタリンギア大公ギゼルベルトは、オットー大帝の弟ハインリヒを擁立し反旗を翻したが、オットー大帝に敗れた。オットーは代わって自らの娘婿コンラート赤毛公(ザリエル家、在位:940年 - 954年)をロタリンギア大公として送り込んだ。954年にコンラート赤公が反乱を起こすと廃位し、代わって自らの弟ケルン大司教ブルーノをロタリンギア大公とした。 ブルーノの下でロタリンギアは下ロートリンゲン 12世紀には下ロタリンギア公位はルーヴァン伯が世襲するようになり、この頃からブラバント公とも呼ばれるようになった。この領邦についてはブラバント公国を参照。 11世紀から12世紀、上ロタリンギア公の位はメッツ伯家(シャトノワ家)が世襲するようになった。下ロタリンギアがブラバントと呼ばれるようになると、こちらは単に「ロートリンゲン」「ロレーヌ」と呼ばれるようになる。この領邦は1766年まで存続した。 1737年、ポーランド継承戦争の結果、ハプスブルク家の女主マリア・テレジアの夫であったロレーヌ公フランソワ3世エティエンヌ(後の神聖ローマ皇帝フランツ1世)は、フランス王ルイ15世の岳父で元ポーランド王のスタニスワフ・レシチニスキ(スタニスラス)にロレーヌ公位を譲った。1766年にスタニスワフが死去すると、ロレーヌ公国はフランスに併合されて消滅した。 その後ロレーヌは、1871年の普仏戦争の結果ドイツ帝国直轄領となり、1919年のヴェルサイユ条約でフランス領に復帰している。
歴史
成立
オットー大帝のロタリンギア支配
ロタリンギアの上下分割
下ロタリンギア
上ロタリンギア(ロレーヌ)
歴代領主一覧
ロタリンギア大公
ゲープハルト(903年 - 910年) コンラディン家、東フランク王コンラート1世の叔父
ギゼルベルト(925年 - 939年) レニエ家
ハインリヒ1世(939年 - 940年) リウドルフィング家、のちバイエルン公、皇帝オットー1世の弟
オットー・フォン・ヴェルダン(940/2年 - 944年)
コンラート(赤公)(944年 - 953年) ザーリアー家、皇帝オットー1世の女婿
ブルーノ(953年 - 965年) リウドルフィング家、ケルン大司教、皇帝オットー1世の弟
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