ロリス・カピロッシ
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ロリス・カピロッシ
2007年 ミラノモーターショーにて
グランプリでの経歴
国籍 イタリア
活動期間1990年 - 2011年
チームホンダヤマハアプリリアドゥカティスズキ
レース数328
チャンピオン125cc - 1990年, 1991年
250cc - 1998年
優勝回数29
表彰台回数99
通算獲得ポイント3190
ポールポジション回数41
ファステストラップ回数32
初グランプリ1990年 125cc 日本GP
初勝利1990年 125cc イギリスGP
最終勝利2007年 MotoGP 日本GP
最終グランプリ2011年 MotoGP バレンシアGP
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ロリス・カピロッシ(Loris Capirossi、1973年4月4日 - )は、イタリアエミリア・ロマーニャ州ボローニャ県カステル・サン・ピエトロ・テルメ出身のオートバイレーサー。

1990年1991年ロードレース世界選手権125ccクラスチャンピオン、1998年の250ccクラスチャンピオン。同選手権で1990年から2011年までの22年間にわたって活躍し、史上最多参戦記録(328戦)を持つ[1]
経歴
キャリア初期

4歳の時からオフロードバイクに乗り始め、ロードレースに転向した1987年にはスポーツプロダクション選手権でシリーズランキング6位となった。翌1988年にはイタリア選手権125ccクラスでシリーズ9位を記録、1989年にはヨーロッパ125cc選手権で4勝を挙げてシリーズ4位となった。
125ccクラス

1990年、カピロッシはパオロ・ピレリが率いるチームからホンダ・RS125Rを駆ってロードレース世界選手権125ccクラスにデビューした。第3戦ネイションズGPで初表彰台(3位)、第11戦イギリスGPで初優勝、第14戦ハンガリーGPで2勝目を挙げるなどの活躍を見せ、オランダのハンス・スパーンらとチャンピオン争いを展開した。

迎えた最終戦オーストラリアGPではチームメイトのファウスト・グレシーニ、イタリアンライダーのドリアーノ・ロンボニ、ブルーノ・カサノバが、スパーンをブロックすることでトップを走るカピロッシのチャンプ獲得を支援した。これに怒ったスパーンは、レース中にグレシーニに殴りかかろうとした[2][3]。結局スパーンは4位に終わり、カピロッシはシーズン3勝目を挙げたことにより選手権史上最年少となる17歳と165日でチャンピオンに輝くこととなった。この最年少記録は2011年現在でも破られていない[4]

1991年もピレリチームに残留。シーズン5勝を挙げ、グレシーニを抑えてタイトル防衛を果たした。
250ccクラス

1992年、カピロッシはマールボロのスポンサードを得てピレリチームから250ccクラスにステップアップを果たした[5]。プライベーター仕様のホンダ・RS250Rではワークスマシン勢に歯が立たず[6]、最高位は最終戦南アフリカGPでの5位、年間ランキングは12位に留まった。

1993年にファクトリースペックのホンダ・NSR250を獲得すると速さを取り戻し、第7戦ダッチTTでクラス初優勝。その後も第9戦サンマリノGPで2勝目、第13戦アメリカGPで3勝目を挙げるなど好成績を残し、ヤマハ・TZ250Mを駆る原田哲也を抑えてチャンピオン争いをリードした。

最終戦、ハラマで開催されたFIM GP、カピロッシは3位以上でゴールすれば原田の順位に係わらずチャンピオンが獲得できる状況だったが、タイヤに問題を抱えて途中コースアウトを喫し結果は5位[7]、勝利を挙げた原田に4ポイント差で敗れてシリーズ2位に終わった。

1994年は4勝を挙げたものの、マックス・ビアッジアプリリア)・岡田忠之(ホンダ)とのチャンピオン争いにはシーズン終盤に脱落し、年間ランキングは3位に終わった。
500ccクラスデビュー

1995年、カピロッシはピレリチームと共に最高峰500ccクラスにホンダ・NSR500を駆ってデビューした。第2戦マレーシアGPで早くもフロントロウを獲得するなど予選での速さは見せたが、決勝ではマシンセットアップに苦しんで順位を落とすレースが続いた[6]。それでも最終戦ヨーロッパGPカタルニア)ではシーズン5度目のフロントロウからクラス初表彰台(3位)を獲得し、年間ランキングでは6位を記録した。

1996年にはウェイン・レイニー率いるヤマハワークスに移籍、YZR500に乗り換えた。最終戦オーストラリアGPでは、ファイナルラップにトップ争い中だったレプソル・ホンダミック・ドゥーハンアレックス・クリビーレの同士討ちに助けられる形ではあったもののクラス初優勝を遂げた[8]。しかしシーズンを通して見ると走りが安定せず、6度ものリタイヤが響いて年間ランキングは10位に終わった。
再び250ccクラスへ

1997年、カピロッシは250ccクラスに戻り、アプリリアワークスに所属することとなった。復帰初年度は3位表彰台を3度獲得するに留まり、シリーズ順位は6位に終わった。

1998年は第3戦スペインGP、第8戦イギリスGPと2勝を挙げたほか安定して表彰台に立ち、5勝を挙げたチームメイトの原田哲也とチャンピオン争いを展開した。カピロッシが4ポイントのアドバンテージを持って迎えた最終戦アルゼンチンGPのファイナルラップでは2位原田・3位カピロッシの順で走行、そのままゴールすれば2人は同ポイントに並び、勝利数で優る原田がチャンピオンとなるはずだった。ところが最終コーナー手前の右コーナーで、カピロッシがオーバースピードで原田のインに突っ込み二人は接触。原田が転倒リタイヤとなり、カピロッシは2位フィニッシュで自身クラス初のチャンピオンとなった。しかしこのスポーツマンシップに反する行為により、カピロッシはアプリリアを解雇され、ほぼ全てのチームから契約を拒否されてしまった[9]

1999年は唯一オファーを提示した旧知のファウスト・グレシーニ率いるElf Axo ホンダ グレシーニ に移籍。NSR250を駆りシーズン3勝を挙げたものの、ムジェロにてマルセリーノ・ルッキ相手にスタート直後に原田との一件の再現を行い、その後ルッキを殴った上でコースに投げ飛ばしたことで、失格と翌戦のカタルーニャへの出場停止処分を受けた事やリタイヤが2戦あったことなどが響き9勝のバレンティーノ・ロッシには歯が立たず、また、同じNSR250を使用した宇川徹にも劣る年間ランキング3位に終わった。
500ccクラス復帰?MotoGPクラス2002年 チェコGP

2000年、グレシーニとの報酬を巡る交渉決裂により、カピロッシは再び最高峰500ccクラスで戦うこととなった。シト・ポンスのチームで駆ったホンダ・NSR500は1年落ちだったものの[5]、第6戦イタリアGPではロッシ、ビアッジとのバトルを制して地元初優勝を遂げ、その勝利が、従来MVアグスタが保持していた500ccにおける最多勝記録更新[10]する等の活躍を見せ、年間ランキング7位を記録した。

引き続き型落ちのNSRを駆った翌2001年[5]、カピロッシは勝利こそ挙げられなかったものの、2位を4回、3位を5回、ポールポジションを4回記録するなど安定した速さを見せ、クラス自己ベストの年間ランキング3位となった。

2002年、最高峰クラスは4ストローク990ccマシン主体のMotoGPクラスに改編となったが、カピロッシは従来型2ストロークマシンに乗り続けることとなった。4ストロークマシンには歯が立たず、第7戦ダッチTTでは右手首を骨折し2戦欠場となるなど苦戦が続き[11]、3位表彰台2回の獲得に留まってランキング8位に終わった。
ドゥカティ時代

2003年、カピロッシはMotoGP新規参戦のドゥカティワークスに移籍した。4ストローク990ccのドゥカティ・デスモセディチGP3を駆り、開幕戦日本GPでいきなり3位表彰台に立ち、第6戦カタルニアGPでチームに初勝利をもたらした。年間ランキングでは4位を記録した。

2004年シーズン用のデスモセディチGP4は最高速は速いものの[12]安定性に問題を抱え[13]、表彰台は僅か1回でランキング9位に沈んだ。2007年 中国GP

2005年はタイヤをミシュランからブリヂストンに変更。新しいパッケージはシーズン後半に強さを見せ、第12戦日本GP第13戦マレーシアGPと2連勝を遂げた。しかし第15戦オーストラリアGPでの転倒で肺にダメージを受け2レースを欠場、年間ランキングは6位に留まった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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