ロラパルーザ
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ロラパルーザ
Lollapalooza

Lollapalooza 2015年
概要
開催年1991年 -
会場

Lollapalooza

アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ グラント・パーク

Lollapalooza Chile

チリ サンティアゴ O'Higgins Park

Lollapalooza Brazil

ブラジル サンパウロ インテルラゴス・サーキット

Lollapalooza Argentina

アルゼンチン ブエノスアイレス サンイシドロ競馬場

Lollapalooza Berlin

ドイツ ベルリン Olympiagelande Berlin

Lollapalooza Paris

フランス パリ パリロンシャン競馬場

Lollapalooza Stockholm

スウェーデン ストックホルム Gardet

主催

Perry Farrell

C3 Presents

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ロラパルーザ(Lollapalooza)はアメリカ合衆国イリノイ州シカゴで毎年開催されるロック・フェスティバル、及び同名を冠した世界各地で開催されているフェスティバル・ブランド。シカゴの他に、チリブラジルアルゼンチンベルリンパリストックホルムで開催されている。

オルタナティヴ・ロックパンク・ロックヒップホップなど様々なジャンルのミュージシャンが公演するほかダンスパフォーマンスやコメディなどの公演も行う。1991年ジェーンズ・アディクションのボーカル、ペリー・ファレルが組織したロラパルーザは北米各地をツアーする形態をとったロックフェスティバルで、オルタナティブ・ミュージックの隆盛に伴い1990年代のアメリカの若者文化の重要な一部を担う存在となった。

1997年でいったん終了した後、2003年に復活したが、チケットの売り上げが思わしくなかったこともあり2004年は開催されなかった。2005年以降、テキサス州オースティンに本拠をおくキャピタル・スポーツ・エンタテインメントが運営を行い、シカゴ都心の大規模公園グラント・パークを毎年の会場とする週末開催型の野外フェスティバルに変更された。2011年から国外進出をはじめ、シカゴの他にも世界各地で開催されるようになった。
経緯ニュージャージーでのロラパルーザ(1991年)

ペリー・ファレルは1990年、ジェーンズ・アディクションの解散にあたり、単独の全米解散ツアーの代わりに多くのバンドとともに全米を回る「ロラパルーザ・フェスティバル」の開催を考えた[1]。「ロラパルーザ」は「傑出した、普通でないもの」という意味の言葉で、ファレルは短編コメディ映画『三ばか大将』(Three Stooges)シリーズの一編でその言葉を知り、語感が気に入ったのでフェスティバルの名称に採用した。

これに先立つ1990年の夏、「ギャザリング・オブ・ザ・トライブス」(A Gathering of the Tribes)がカリフォルニア州のサンノゼロサンゼルスの二か所を舞台に開催された。二日間のコンサートは伝説的なプロモーターのビル・グラハムと、「ザ・カルト」のリードシンガー、イアン・アストベリーが組んで行われたもので、イギー・ポップサウンドガーデンクイーン・ラティファ、ザ・クランプス、インディゴ・ガールズ、レニー・クラヴィッツジョーン・バエズスティーヴ・ジョーンズ(元セックス・ピストルズ)、パブリック・エナミーらヒップホップやロックなどのミュージシャンが参加し、成功裏に終わった。このコンサートは異なったジャンルのミュージシャンの混ざり合ったフェスティバルの可能性や、オルタナティヴ・ミュージックの市場の可能性を指し示したものだった。ペリー・ファレルもロサンゼルスのコンサートに一観客として参加しており、こうしたさまざまなミュージシャンを集めた移動型フェスティバルの全国版があってしかるべきだと考えた。

ロラパルーザはかつてのウッドストック・フェスティバルやギャザリング・オブ・ザ・トライブスとは異なり、単発のフェスティバルでなく毎年開催されるもので、しかもアメリカからカナダにかけての多くの都市を数ヶ月かけて巡回するフェスティバルだった。こうした先鋭的なミュージシャンが参加するフェスティバルが東海岸や西海岸の大都市近郊だけではなく、中西部や南部など内陸部の地方都市へも巡回したことは、アメリカにおける1990年代のオルタナティブ・ミュージックの活性化に一役買ったといえる。

1991年の第一回は、ラッパーのアイス・Tからインダストリアルナイン・インチ・ネイルズまでがヘッドライナーとして参加するジャンル横断的な顔ぶれであり、音楽産業からの独立の雰囲気に満ちていた。ロラパルーザのもう一つの要点は音楽以外のサブカルチャーを多く取り上げたことであり、フリークショーのジム・ローズ・サーカスからポエトリー・リーディング少林寺の武僧までがパフォーマンスを見せた。また会場にはテントが立ち、その中には政治や環境問題などのNPOの窓口、イラストや美術作品・工芸品などの展覧会、ビデオゲームのコーナーなどが設けられ、1990年代のカウンターカルチャーが集まる総合的な文化イベントの様相を呈した。

1991年よりあとからはメインステージのほかにセカンドステージが、さらに1996年からはサードステージが設けられ、新進のバンドや現地のバンドがセカンドステージなどで公演を行った。こうした小さなステージで公演を行うアンダーグラウンドのバンドからもメインストリームへ躍り出るバンドが出現し、ロラパルーザは未知数のバンドが全米に名を知られるきっかけを多く作った。
成功と凋落第1回ロラパルーザで歌うナイン・インチ・ネイルズトレント・レズナー(1991年)

1990年代初頭のグランジの爆発はロラパルーザを時代の先端に押し上げた。1992年1993年のフェスティバルはラップやハードロックのほかにグランジが多く取り上げられたほか、パール・ジャムレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンレッド・ホット・チリ・ペッパーズなどがヘッドライナーとして参加し、モッシュやクラウド・サーフィンといったパンク・ロック・コンサートの聴衆のパフォーマンスがフェスティバルにも持ち込まれた。また詩や本の朗読、ジャングルジム、タトゥーピアスを入れる店など屋台の参加者が激増し、コンサート会場の外は市場のような状態になった。

当時はチケット販売の際に各開催都市のチケット店の前に行列ができ、何日もチケット店の前にキャンプを張って待つ人々もいた。しかしチケットの高さや、会場の飲食物の高さ、野外会場の無秩序さやセキュリティのなさには怒りの声も上がった。日没後はゴミや毛布を燃やしてキャンプファイヤーを行う者もおり、また舞台を取り巻く照明などの足場によじ上る者もいた。

1994年はグランジの絶頂期であると同時に悲劇の年でもあった。ニルヴァーナがこの年のロラパルーザのヘッドライナーとなる予定だったが、彼らは4月7日に出演を辞退した。ボーカル・リードギターのカート・コバーンが遺体で発見されたのは翌4月8日だった。コバーンの未亡人コートニー・ラブは同年のロラパルーザのいくつかの都市のステージに(スマッシング・パンプキンズのボーカル、ビリー・コーガンから時間を譲られて)サプライズゲストとして登場し、コバーンの喪失を聴衆に語った。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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