ロメオとジュリエット_(グノー)
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W.ミラーの絵画に基づく A.スミスによる第1幕の版画ロンドンでの英国初演時のパッティとマリオ.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル クラシック音楽

『ロメオとジュリエット』(: Romeo et Juliette)は、フランスの作曲家シャルル・グノーが作曲した全5幕のオペラである。ウィリアム・シェイクスピア戯曲ロミオとジュリエット』を原作とする。劇中の『ジュリエットのワルツ』やアリアなどは多くの歌手によって好んで歌われている。
概要

グノーが作曲したオペラの中では9番目にあたり、『ファウスト』に次いで目覚ましい成功を収めた作品である。またアリア『恋よ、恋よ』や第1幕におけるジュリエットのアリア(ワルツ)『私は夢に生きたい』、シャンソン『白いきじ鳩よ』は有名である。『新グローヴ オペラ事典』では本作は「シェイクスピアの戯曲から生まれた数多くの作品の中で最も成功し、人気を得たもののひとつである。特に4つの愛の二重唱が高く評価されている。それぞれが独特の音楽的、劇的な雰囲気を備えたものになっている」。本作の「長所は愛の音楽という範囲を超えている。メルキュシオによるマブ女王のバラードは雰囲気をたっぷり伝えたものであり、グノーは第3幕終わりの両家の大きな衝突の場面で、劇的な熱気を生み出すのに成功している」と解説している[1]。また「シェイクスピアの『ロメオとジュリエット』を題材にしたオペラでは本作が最高の名曲である。本作の特徴はまずその主題に相応しく、感覚美や抒情美をたたえた魅力的な旋律に顕現する。感傷をも交えた甘美な声の饗宴はオペラの重要な要素で感銘深い」[2]という見解もある。原作に比べると、劇的な力や表現、深みに欠けると評価されることもしばしば見受けられる。しかし、グノー独特の甘美な旋律や洗練された音楽は、多くの人々から広く好まれていることも事実である。
作曲の経緯と初演ジュリエット役を得意としたアデリーナ・パッティのフランツ・ヴィンターハルター による肖像画(1862)
構想に至るまで

1859年に『ファウスト』が初演されて成功を収めたグノーは、1860年に『フィレモンとボーシス(Philemon et Baucis)』[注釈 1]と『鳩(La Colombe)』[注釈 2]1862年に『サバの女王(La Reine de Saba)』[注釈 3]の3作のオペラを立て続けに世に送り出したが、これら3作は『ファウスト』のような成功を収めることはできず、いずれも失敗に終わっている。不振が続くグノーだったが、1863年に作曲され翌64年に初演されたオペラ『ミレイユ(Mireille)』[注釈 4]で再び成功している。この初演後にシェイクスピアの戯曲『ロミオとジュリエット』のオペラ化の構想を練り始める。実際に、作曲に着手する以前に友人たちに宛てて書いた手紙の中で、このオペラの計画について仄めかしていることが窺える。
作曲から完成まで

グノーは1864年末に作曲を開始し、1865年の4月にフランス南部のサン=ラファエルでスケッチとその草案を作り、7月頃に完成させる。オーケストレーション1866年の初め頃までに出来上がらせているが、その間神経症に悩ませられ、作業は滞っていたといわれる。1866年に全曲を完成させた後、初演に向けて準備が行われたが、グノーはオペラの一部を部分的に補筆したり、レチタティーヴォを追加するなど、初演直前まで改訂を施している。
初演とその後

完成させた翌年の1867年4月27日に、パリリリック座で初演され、前作『ミレイユ』に続いて大規模な成功を収めた。当時パリ万国博覧会が開催中のこともあって、劇場は連日満員で、フランス各地と国外から大多数の見物客が押し寄せていたことが要因であった。この大成功の後、イギリス初演が1867年7月11日ロンドンのコヴェントガーデンのロイヤル・オペラ・ハウスで行われた。出演はアデリーナ・パッティ、ジョヴァンニ・マテオ・マリオ、コトーニ、タッリャフィーコら、指揮はコスタであった[3]。この英国での上演を機に人気が急激に上昇し、この年の末にはドイツベルギーなどの各主要都市でそれぞれ上演がなされている。また、アメリカ初演は1867年11月15日ニューヨークのアカデミー・オブ・ミュージックにて行われた。出演はホーク、パンカーニ、アントナッチ、メディーニら、指揮はバーグマンであった[3]。日本初演は1918年に旭オペラ座によって日本館にて行われた[4]。なお、1888年にパリ・オペラ座での上演において、グノーは一部改訂を行い、第4幕のフィナーレにバレエ音楽を追加している。
原作とリブレットジュール・バルビエ ミシェル・カレ

リブレットはジュール・バルビエ(Jules Barbier)とミシェル・カレ(Michel Carre)によりシェイクスピアの同名の原作を基にフランス語で作成されている。『シェイクスピア劇のオペラを楽しもう』の著者である福尾芳昭によると本作は「本筋でも細部でも原作を下敷きにしてほぼ忠実に要領良くドラマが展開されている。原作とオペラの重大な相違を一箇所指摘するならば、原作では墓地に駆けつけたロメオはジュリエットの仮死を実の死と思い込み、悲嘆と絶望のあまり服毒死する。仮死から覚めたジュリエットはロメオの亡骸に接してやはり悲嘆と絶望の末、彼の体の上で短剣で自決し、悲劇が完結する。一方、オペラでは服毒したロメオの息のある間にジュリエットが仮死から覚め、彼との再会を欣喜雀躍する。しかし、彼から服毒を知らされて彼との恋の最後の至福の陶酔の後、彼の服毒に絶望して、彼女は短剣でわが身を刺し、欣然として彼と死を共にする。恋愛悲劇オペラでは恋人同士が二重唱を歌って悲劇完結するのが必要であり、二重唱は聴かせどころでもあるので原作とのこういう変更措置が講じられるのは止むを得ないし、必要でもある」[5]
登場人物

人物名声域役初演時のキャスト
1867年4月27日
指揮:アドルフ・デロッフル(英語版)
ロメオテノールモンタギュー家の長男ピエール=ジュール・ミショー
ジュリエットソプラノキャピュレット卿の娘マリー・カロリーヌ・ミオラン=カルヴァロ (英語)
ロラン神父バスロメオとジュリエットを
助けようとする神父ジャン・カゾー
メルキュシオバリトンロメオの友人オーギュスト=アルマン・バーレ
キャピュレット卿バスジュリエットの父エティエンヌ・トロワ
ティボルトテノールジュリエットの従兄ジュール=アンリ・ピュジェ
ステファノソプラノロメオの従者の少年、小姓ジョセフィーヌ・ダラン
ジェルトリュードメゾソプラノジュリエットの乳母エレオノール・ラゲーヌ=デュクロ
グレゴリオバリトンキャピュレット家の家来エティエンヌ・トロワ
パリスバリトン若い伯爵ラヴェシエール
ベンヴォーリオテノールモンタギュー家の甥ピエール=マリー・ローラン
ジャンバス修道士ヌヴュー
ヴェローナ大公バリトン?エミール・ヴァルテル

その他(合唱):キャピュレット家とモンタギュー家の家来たち、親戚たち、仮面舞踏会の客たち
楽器編成

木管楽器:
フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2

金管楽器:ホルン4、トランペット2、トロンボーン2

打楽器:ティンパニ、打楽器類(多数)


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