ロマン主義
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ロマン主義(ロマンしゅぎ、: Romanticism、: Romantisme、: Romantik、: Romanticismo、西: Romanticismo、: Romantismo)は、主として18世紀末から19世紀前半にヨーロッパで、その後にヨーロッパの影響を受けた諸地域で起こった精神運動のひとつである。それまでの理性偏重、合理主義などに対し感受性や主観に重きをおいた一連の運動であり、古典主義と対をなす。恋愛賛美、民族意識の高揚、中世への憧憬といった特徴をもち、近代国民国家形成を促進した。その動きは文芸美術音楽演劇などさまざまな芸術分野に及んだ。のちに、その反動として写実主義自然主義などをもたらした。ドラクロワ『アルジェの女たち』(1834年、ルーヴル美術館所蔵)
概要

ロマン主義は教条主義古典主義の対概念としてとらえられるもので、アメリカ哲学者アーサー・オンケン・ラヴジョイは「ロマン主義の時代」を1780年から1830年としている[1]。また、ロマン主義は部分的には産業革命への反動であった[2]。その萌芽は既にベルナルダン・ド・サン=ピエールディドロに見られ[3]セナンクールスタール夫人バンジャマン・コンスタンフランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアンといった初期ロマン派作家によって、それまで教条主義によって抑圧されてきた個人の独自性を根本とした表現が特徴とされる。これらはナポレオン1世第一帝政に対する文化的抵抗運動の中で文芸サロンやサークル内で醸成された。また、フランスジャン=ジャック・ルソーの著作がドイツに伝えられたことで始まったドイツのロマン主義は、再びフランスに逆輸入される形でその花を開いた[4]。フランスのロマン主義運動はオノレ・ド・バルザックの死を境に1850年代以降は勢いを失い、シャルル・クロスなどの小ロマン派を除いては[5]その座を写実主義自然主義高踏派などに譲ることになるが[6]、その影響はヨーロッパ全域に広まり、世紀末から20世紀初頭の後期ロマン主義にまで及んだ。ロマン主義を信奉する傾向や集団を指してロマン派 とも呼ばれる。

ロマン主義の底流に流れているものは、古典主義や教条主義がしばしば無視した個人の、根本的独自性の重視、自我の欲求による実存的不安といった特性である。ロマン主義においては、古典主義において軽視されてきたエキゾチスムオリエンタリズム神秘主義などといった題材が好まれた。また、それまで教条主義によって抑圧されてきた個人の感情、憂鬱不安・動揺・苦悩・個人的愛情などを大きく扱った。また、古典主義はその技法上の制約によって芸術的自由を抑圧したと非難する主張や、古典主義の欠陥に対する反発から、ロマン主義は出発したとされる[7]

この特性および主張は、道徳やキリスト教的倫理から文学を解放し、やがて写実主義自然主義へと継承された。フランチェスコ・アイエツ『オダリスク』(1867年、ブレラ美術館所蔵)
「ロマン」の語源

ローマ帝国時代のラテン語には、文語としての古典ラテン語と口語としての俗ラテン語が存在したが、その差はさほど大きくなかった。しかし、衰退期に入ると文語と口語の差は徐々に広がり、やがて、ひとつの言語の変種とは呼べないほどにその違いは大きくなり、文語は、古典ラテン語の知識のない庶民には理解困難なほどにまでなった。対して、その時代の口語のほうをロマンス語と呼んだ。ロマンス語で書かれた文学作品はロマンスと呼ばれるようになり、ギリシャ・ローマの古典文学の対立概念とされるようになった。ロマン主義(ロマンティシズム)の語源はここにある。したがってロマン主義の「ロマン」とは、「ローマ帝国の(支配階級、知識階級ではなく)庶民の文化に端を発する」という意味である。
ロマンと浪漫

ロマンを「浪漫」という当て字で表記したのは夏目漱石であり、1907年の講義録『文学論』にその存在が確認できる。表現の写実にして取材の浪漫なるものあり。取材の写実にして表現の浪漫なるものあり。 ? 夏目漱石、文学論

また、1911年には長野県会議事堂での講演で、「自然派」と共に自身が「浪漫主義」と當てたと回答している。さて一方文学を攷察して見まするにこれを大別してローマンチシズム、ナチュラリズムの二種類とすることが出来る、前者は適当の訳字がないために私が作って浪漫主義として置きましたが、後者のナチュラリズムは自然派と称しております。 ? 夏目漱石、『教育と文芸――明治四十四年六月十八日長野県会議事院において――』

多くの和製漢語と共に中華圏で受容され、現在も中国語では「浪漫主義」の表現が用いられる。
文学

文学では「ロマンティック (romantique)」という言葉を現在、その言葉に含蓄されているような意味合いで初めて使ったといわれるフランスのルソー(『孤独な散歩者の夢想』)を嚆矢とし、多くの作家が挙げられる。
フランスヴィクトル・ユゴージョルジュ・サンド

18世紀末のベルナルダン・ド・サン=ピエールの『ポールとヴィルジニー(英語版)』やディドロの『ラモーの甥(英語版)』あるいはルソーの『新エロイーズ』、『告白』などにロマン主義の萌芽は見られた。19世紀に入ると、スタール夫人バンジャマン・コンスタンフランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアンセナンクールといった初期ロマン派作家によって、現実認識および自我といった根源及び対象を持った本質的欲求の表現を通して、それまで教条主義によって抑圧されてきた個人の根本的独自性やそれを根源とした苦しみが明確な形をとって表現された。倦怠、不満、無力、自己満足、欲求不満と人に容れられぬという意識、こうした実存的不安、あるいはシャトーブリアンが「情熱の空漠性」と呼び、コンスタンが「今世紀の主要な精神的な病のひとつ」と呼んだものは、それまでの教条主義では存在が否定され、啓蒙主義においてはその輝きの影に隠れたものであった。同時に、この自我の流謫と、他者に対する夢想の中で揺れ動く自我の称揚にロマン主義の基盤が据えられている。これらはナポレオン1世第一帝政に対する文化的抵抗運動の中、文芸サロンやサークルの中で醸成された。また、ヴィクトル・ユゴーやその兄アベル・ユゴー(フランス語版)が属した「文学保守(フランス語版)」誌、あるいは「グローブ(フランス語版)」誌、「フランス精神」誌などを発表の根拠地としていた。


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