ロマンシュ語
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ロマンシュ語

Romansh, Rumantsch
ロマンシュ語で書かれた文章や看板
話される国 スイス
地域グラウビュンデン州
話者数36,600人(2012年[1]
言語系統インド・ヨーロッパ語族

イタリック語派

ロマンス語

レト・ロマンス語群

ロマンシュ語




表記体系ラテン文字
公的地位
公用語 スイス
統制機関 Lia Rumantscha
言語コード
ISO 639-1rm
ISO 639-2roh
ISO 639-3roh
スイスにおけるロマンシュ語話者の分布(ダークグリーン)
消滅危険度評価
Definitely endangered (Moseley 2010)
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ロマンシュ語(ロマンシュご、  rumantsch, rumantsch,  romauntsch,  romontsch)は、インド・ヨーロッパ語系統ロマンス語派に属するレト・ロマンス語群に属する言語スイス連邦において、ドイツ語スイスドイツ語)、フランス語イタリア語ロンバルド語ティチーノ語)とならび、第4の国語として認められている。これは2000年に制定されたスイス連邦新憲法においても変わりはない。

ただし、スイス全域で使用出来る公用語としての地位ではなく、南東部にあるグラウビュンデン州アルプス北山麓の渓谷地などきわめて限られた土地でしか使用されていない。2012年の国勢調査では、約3万6600人がロマンシュ語を「一番堪能である言語」として掲げたが、「日常的に使用する諸言語の一つ」と答えたのは(2000年の調査時点で)6万人強である[2]。話者数は総人口の0.5%に満たないが、グラウビュンデン州では法定の公用語となっている[3]。使用人口を年齢別に見た場合多くが高齢層であるが、ロマンシュ語圏に属する116の自治体の中で、98の自治体が小学校・中学校の教育をロマンシュ語で行っている[4]など、スイス政府は様々な政策で言語の保存を試みている[5]
言語学上の特徴

言語の響きはイタリア語にほど近いが、イタリア語ほど母音過多ではなく、語彙などの分布はフランス語に共通する。最も地理的に近いドイツ語は、ロマンシュ語とは語派が異なるゲルマン語派にもかかわらず、この言語に大きな影響を及ぼしている。

ロマンシュ語が最終的に標準化されたのは1982年とかなり最近になってからのことで、その際に正書法の見直しが行われ、それまで使用されてきたいわゆる「奇妙な」綴り字(tgなど)から、よりヨーロッパ諸言語の綴り字方法に近い正書法が確立された。
五大方言と新共通語ロマンシュ語の方言地図

ロマンシュ語には五大方言があり、それぞれが大切に扱われてきた。スルシルヴァン方言(Sursilvan)、スツィルヴァン方言(Sutsilvan)、プテール方言(Puter)、スルミラン方言(Surmiran)、ヴァラデル方言(Vallader)である。しかしそれでは不便な面もあるので、1982年以降、おもに言語学者ハインリッヒ・シュミット(Heinrich Schmid、1921-1999)によって後述の共通ロマンシュ語「ルマンチ・グリシュン」(Rumantsch Grischun、「グリシュン州のロマンシュ語」の意味)が提案されて、賛否両論で侃々諤々の議論の末、2010年代にはこれを育てて行こうとする方向へ向かってはいる。
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この項目「ロマンシュ語」は途中まで翻訳されたものです。(原文:英語版 "Romansh language" 01:08, 9 October 2022 (UTC))
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起源と近代までの発展詳細は「en:Romansh language#Origins and development until modern times」を参照

ロマンシュ語は、紀元前15年ローマ人によるグリソン地域、即ち現代のグラウビュンデン州の征服に続いて、ローマの兵士、商人、役人によってこの地域にもたらされた話し言葉のラテン語に由来する。それ以前は、住民はケルト語ラエティア語を話していたが、ラエティアの言語は主にエンガディン地方低地の渓谷で話されていたようである。これらの言語の痕跡は、チュリン(ドイツ語版)、シュクオル、サヴォニン(ドイツ語版)、グリヨン(フランス語版)、ブロイル=ブリゲルス(ドイツ語版)、ブリエンツ=ブリンツァウルス(ドイツ語版)、プレッティガウ=パルテンツ(ドイツ語版)、トゥルンなどの村の名前を含む地名に主に残っている。さらに、ロマンシュ語ではラテン語以前の少数の単語が生き残っており、主に動物、植物、およびアルプス山脈特有の地質学的特徴に関するものである。

(後略)
19世紀から20世紀にかけてのロマンシュ語詳細は「en:Romansh language#Romansh during the 19th and 20th centuries」を参照詳細は「スイスの歴史」を参照

ナポレオン・ボナパルトのナポレオン調停法(英語版)により、グリソンは1803年にスイスの州(カントン)になった。州憲法は1892年に制定された。グリソンが 1803年にスイスの一部になったとき、人口は約 73,000 人で、そのうち約 36,600 人がロマンシュ語を話す人であった。 ?彼らの多くは単一言語であり、主にロマンシュ語を話す谷間に住んでいた。16世紀以来ほぼ安定していたドイツ語との言語境界は、ますます多くの村がドイツ語に移行するにつれて、再び動き始めた。原因のひとつは、グリソンがスイスの州として認められたことで、ロマンシュ語話者がドイツ語話者と頻繁に接触するようになったことである。もうひとつの要因は、常にドイツ語を行政用語として使用していたグリソンの中央政府の力が強まったことである。さらに、多くのロマンシュ語話者はドイツ語を話す大都市に移住し、ドイツ語話者はロマンシュ語の村に定住した。さらに、経済の変化は、ほとんどが自給自足であったロマンシュ語を話す村が、ドイツ語を話す地域とのより頻繁な通商に従事することを意味した。また、インフラの改善により、旅行や他の地域との連絡が以前よりもはるかに容易になった。

最後に、観光の台頭により、多くの分野でドイツ語の知識が経済的に必要なものになったが、ロマンシュ語の伝統的な領域であった農業部門はあまり重要ではなくなった。これらすべては、ロマンシュ語話者にとってドイツ語の知識がますます必要になり、ドイツ語がますます日常生活の一部になったことを意味した。ほとんどの場合、ドイツ語は脅威ではなく、自国の地域外でのコミュニケーションの重要な資産と見なされていた。一般の人々は、ドイツ語を学ぶためのより良い環境を頻繁に要求した。公立学校が出現し始めたとき、多くの地方自治体は、町がまだロマンシュ語を話していた1833年にドイツ語が学校教育の言語になったイーランツ=グリヨン(ドイツ語版)の場合のように、指導の媒体としてドイツ語を採用することを決定した。

(中略)

20世紀にわたるロマンシュ語の衰退は、スイスの国勢調査の結果を通して見ることができる。ロマンシュ語圏の地域のドイツ化は、話者率の減少原因の一部にすぎない。なぜならロマンシュ語を話す渓谷では常に、州の他の地域よりも全体的な人口増加率が低かったためである。[6]


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