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やノートページでの議論にご協力ください。ロマノフ朝(ロマノフちょう、1613年 - 1917年)は、1613年から1917年までロシアに君臨したロシアの歴史上最後の王朝である。1892年、夏、サンクトペテルブルクのクラスノエ・セロでの軍事演習に姿を見せるロマノフ家の皇帝・皇族。前列の座っている人物、画面向かって左から クセニア大公女(白い服に白い帽子の女性)、メクレンブルク・シュヴェーリン公女ウラジーミル大公妃マリア(黒い服の日傘を持った女性)、その右隣エレナ大公女, さらにその右隣ザクセン・アレテンブルク公女コンスタンティン大公妃アレクサンドラ、アレクサンドル3世の皇后マリア(白い服の女性)、皇帝アレクサンドル3世、ミハイル大公 、 パーヴェル大公。(すぐ後ろの列、画面向って左から) メクレンブルク公カール・ミヒャエル とメクレンブルク・シュトレリッツ公ゲオルク (パーヴェル1世の曾孫), コンスタンティン大公とその姉ギリシャ王妃オルガ(黒い服の女性)、その右隣はニコライ皇太子(のちのニコライ2世)、 ウラジーミル大公、ドミートリー大公 (白い帽子の人物)、オルデンブルク公子ペーター (パーヴェル1世の玄孫)および第6代ロイキテンベルク公ゲオルギー (ニコライ1世の曾孫)。最後列の3人の男性は左から セルゲイ大公、ニコライ大公、 オルデンブルク公アレキサンダー (ドミートリー大公の肩を見ている人物。ペーター公の父、パーヴェル1世の曾孫)。 最前列で地べたに座っている4人の少年はアレクセイ大公 (黒の海軍服の人物)、そのとなりの白の海軍服の人物は左からミハイル大公とアンドレイ大公と ボリス大公。 1613年にロマノフ家のミハイル・ロマノフがロシア・ツァーリ国のツァーリに即位して成立した。その後1721年にピョートル1世がインペラトールを名乗り体制をロシア帝国に改め西欧化を推進し、1917年にロシア革命で滅亡した。 政体はロシア・ツァーリ国とロシア帝国に分かれ、首都はモスクワからサンクトペテルブルクに遷っている。また王家はロマノフ家からドイツ貴族のホルシュタイン=ゴットルプ家に男系が移っており、ピョートル3世以降はホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ王朝と呼ぶのが正しい(後述)。 このように歴史学上では区分されるが、1913年に「ロマノフ王朝300年祭
概要
現在でも単に「ロマノフ朝」といえば「ミハイル・ロマノフからニコライ2世まで連綿と続いたロシアの王朝」と指すのが一般的である。
歴史
創始詳細は「ロマノフ家」、「ロシア帝国」、および「ロシア帝国の歴史」を参照
リューリク朝は1598年1月、フョードル1世の崩御で断絶した。以後、ロシアでは皇位をめぐる動乱期に入り、その中で16世紀末のフョードル・ニキーチチ・ロマノフの代にロマノフ家が台頭して動乱期[1]を制し、その息子であるミハイル・フョードロヴィチ・ロマノフが1613年に推戴されて初代ツァーリに即位した。ロマノフ家はリューリク朝と直接の血縁関係は無いが(一応、女系ではリューリク朝の傍流の血に連なる子孫だが、その程度の血縁者ならば、他の貴族にも多数いた)、イヴァン4世の第1夫人がロマノフ家出身であるという縁戚であった。こうして、ここに300年続くロマノフ朝が始まった。 ミハイルとその息子であるアレクセイの時代は対外戦争と国内戦争の2つに悩まされながらも、帝政の基盤固めと西洋化が進められた。アレクセイの末子で専制君主として君臨したピョートル1世(ピョートル大帝)の時代にロシアは西洋化・近代化を急速に押し進めてヨーロッパの列強に加わり、その後勢力を拡大してヨーロッパから沿海州までを支配し、帝政の基礎はこの時代に安定した。 1725年のピョートル大帝の崩御後、ロマノフ朝は常に継承問題に悩まされた。
ピョートル大帝まで
ロマノフ朝の男系断絶と世襲の危機ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家の紋章。左側のグリフォンの紋章がロマノフ家の紋章。