ロマノス4世ディオゲネス
[Wikipedia|▼Menu]

この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。
出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2013年3月)

ロマノス4世ディオゲネス
Ρωμαν?? Δ' Διογ?νη?
東ローマ皇帝
ロマノス4世ディオゲネス(左)
在位1068年 - 1071年

出生1030年

死去1072年

配偶者エウドキア・マクレンボリティサ
子女ニケフォロス
レオ
王朝ドゥーカス朝
テンプレートを表示

ロマノス4世ディオゲネス(ギリシア語:Ρωμαν?? Δ' Διογ?νη? R?manos IV Diogen?s、1030年 - 1072年)は、東ローマ帝国ドゥーカス王朝の第3代皇帝(在位:1068年 - 1071年)。
生涯

即位前はカッパドキアで将軍を務めていた。1067年コンスタンティノス10世ドゥーカスの死後、皇后エウドキア・マクレンボリティサが女帝として即位したが、国民や貴族層はセルジューク朝の侵攻もあり、強力な軍事政権の成立を望んでいた。このため1068年、エウドキアはロマノスと結婚し、彼を皇帝として新たに即位させた。これがロマノス4世である。

即位後は北方から侵攻してきたペチェネグロシア人ノルマン人と和睦して彼らを傭兵として取り込み、軍備を増強したうえでセルジューク朝と会戦し、ある程度の戦果を得た。

1071年には自ら6万の兵を率いて親征した。兵力の少ないセルジューク朝は和議を望んでいたが、ロマノスはこれを拒否してマンズィケルト(マラズギルト)にてセルジューク軍と戦った。しかし帝国軍は数こそ多かったものの傭兵の寄せ集めで練度が低く、味方の裏切りもあって大敗を喫し、ロマノス自身も捕虜となってしまった。ローマ皇帝が捕虜となったのは、3世紀のウァレリアヌス以来のことであった。この敗戦で小アジアはトルコ人に占領された。

一方、妻のエウドキアは夫が敗戦して捕虜となったことを知ると、夫を廃して前夫との間に生まれていた息子ミカエル7世ドゥーカスを新たに皇帝として即位させた。同年のうちにセルジューク朝から釈放されたロマノスは、ミカエル7世の皇位継承を認めず抵抗したが、捕らえられて盲目にされたうえで追放された。そして1072年、失意のうちに死去した。










東ローマ皇帝
テオドシウス朝

アルカディウス383-408 / テオドシウス2世408-450 / マルキアヌス450-457
レオ朝

レオ1世457-474 / レオ2世474 / ゼノン474-491 / バシリスクス(対立皇帝)475-476 | 断絶 | アナスタシウス1世491-518
ユスティニアヌス朝

ユスティヌス1世518-527 / ユスティニアヌス1世527-565 / ユスティヌス2世565-578 / ティベリウス2世578-582 / マウリキウス582-602 / フォカス602-610
ヘラクレイオス朝

ヘラクレイオス610-641 / コンスタンティノス3世641 / ヘラクロナス641 / コンスタンス2世641-668 / コンスタンティノス4世668-685 / ユスティニアノス2世685-694 / レオンティオス695-698 / ティベリオス3世698-705 / ユスティニアノス2世(復位)705-711 | 断絶 | フィリピコス・バルダネス711-713 / アナスタシオス2世713-715 / テオドシオス3世715-717


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:18 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef