ロマノス2世
Ρωμαν?? Β
東ローマ皇帝
父コンスタンティノス7世とロマノス2世が印されたノミスマ金貨
在位959年11月9日 - 963年3月15日
出生939年
死去 (963-03-15) 963年3月15日(24歳没)
東ローマ帝国、コンスタンティノポリス
配偶者エウドキア(ベルタ)(イタリア王ウーゴ娘)
継室テオファノ
子女バシレイオス2世
コンスタンティノス8世
アンナ(キエフ大公妃)
王朝マケドニア王朝
父親コンスタンティノス7世
母親ヘレネ
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ロマノス2世(ギリシア語:Ρωμαν?? Β' (Romanos II)、939年 - 963年3月15日)は、東ローマ帝国マケドニア王朝の皇帝(在位959年 - 963年)。父はコンスタンティノス7世、母はロマノス1世レカペノスの娘ヘレネ。 959年、父コンスタンティノス7世の死により後を継いで即位する。行政面においては父時代からの重臣である宦官のヨセフ・ブリンガス
生涯
ところが963年、狩猟に出かけて事故に遭い、在位わずか4年で死去した。復活祭の最中だというのに道もない山奥へ出かけ、落馬して命を落としたと伝えられている[1]。 後には絶世の美女として知られた皇后のテオファノ、5歳のバシレイオス(後の皇帝バシレイオス2世)と3歳のコンスタンティノス(後の皇帝コンスタンティノス8世)の二人の皇子、皇女アンナ(後のキエフ大公ウラジーミル1世妃)が残された。ロマノスを支えてきた宦官のブリンガスと将軍のニケフォロスは、どちらが幼い皇帝の摂政として実権を握るかをめぐって争ったが、結局軍と首都市民の支持を受けたニケフォロスがブリンガス派との首都市街戦に勝利し、テオファノ皇后と結婚して帝位に就いた[2]。 なお、ヨハネス・スキュリツェスの年代記によると、次男コンスタンティノス付きの寝室管理官にロマヌスの母方叔父で宦官のバシレイオス・レカペヌス(ソノス)が就任しており、ヨセフ・ブリンガスと険悪であった。 美男であったが政治にも軍事にも関心がなく、曽祖父バシレイオス1世のような勇敢さも、祖父のレオーン6世や父コンスタンティノス7世のような学問への興味も持っていなかった。宴会が大好きで狩りとポロに明け暮れていたため、自ら国事を司ることはなく、すべて臣下に任せきりであった[3]。 ヨハネス・スキュリツェスの年代記によると、父のコンスタンティノス7世よりも低いものの、背が高い部類であり、礼儀正しく物腰が柔らかで、聡明、利発で頭の回転も速かったものの、側近らが無能な怠け者に仕立て上げたとしている。頻繁に娼婦やふしだらな女たち、役者や喜劇役者などといった軽薄な者たちと付き合っていたと記している。
死後の政争
人物
脚注[脚注の使い方]^ 井上(2009) P161
^ 井上(2009) P1161-165
^ 井上(2009) P159
参考文献
井上浩一『ビザンツ皇妃列伝―憧れの都に咲いた花』2009年白水社からの再版 ISBN 978-4-560-72109-4 元は筑摩書房、1996年(絶版)
表
話
編
歴
東ローマ皇帝
テオドシウス朝
アルカディウス383-408
テオドシウス2世408-450
マルキアヌス450-457
レオ朝
レオ1世457-474
レオ2世474
ゼノン474-491
バシリスクス(対立皇帝)475-476 | 断絶 | アナスタシウス1世491-518
ユスティニアヌス朝
ユスティヌス1世518-527