ロマネスク建築
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ロマネスク建築(ロマネスクけんちく、: Romanesque architecture)は、中世西ヨーロッパ建築様式である。時代区分としては、おおよそ1000年から1200年頃までのゴシック建築以前の建築を指す。同時代のビザンティン建築と同じく、教会堂建築において最高の知識技術芸術が集約されており、彫刻絵画は聖堂を装飾するための副次的要素であった。ロマネスク建築の建築物は大陸全体で見られ、帝政ローマ建築以来初めての汎ヨーロッパ建築様式とも言える。

ロマネスクという言葉は、美術史・建築史において、19世紀以降使われるようになった用語である。直訳すると「ローマ風の」という意味であるが、当初は「堕落し粗野になったローマ風の建築様式」という蔑称としての側面が強く、その芸術的・建築的価値が評価されるようになるのは20世紀になってからである[1]マリーア・ラーハのベネディクト会大修道院教会堂

 
概説

ロマネスク建築は、11世紀ザクセン朝神聖ローマ帝国によって西ヨーロッパの秩序が回復した後、フランススペイン北部、ドイツイングランドイタリアと、これらに囲まれた地域で形成された建築である。東ヨーロッパなどの周辺部については、わずかながらロマネスク建築の特徴を持った教会堂が点在するが、本質的には西ヨーロッパで興った建築である。

ロマネスク建築の初期の発展については、カロリング朝フランク王国の時代を通じて組織化された中世キリスト教会、特に11世紀に西ヨーロッパの学問文化を主導する役割を担っていた修道院の活動によるところが大きい。ロマネスクの時代、修道院運動は全盛期を迎えており、11世紀に設立されたクリュニー修道院と12世紀創設のシトー会の活動は、ロマネスク建築の発展に特に関連づけられる。12世紀後半になると、教会改革によって修道院の活動はより厳格なものとなり、修道院建築は簡素なものとなるが、神聖ローマ帝国の権力が解体されたことによる地方封主の勢力拡大とヨーロッパ全体の農業と産業の発展にともなって、世俗の支援者たちによる拠点都市への大教会堂の建設が行われるようになった。このため地域的な差異がたいへん大きくなり、イベリア半島やイタリア半島南部では、イスラーム芸術が入り交じった独特の建築(シチリア王国の建築や、アンダルシアムデハル様式)を形成し、12世紀後期のイル=ド=フランスは、すでにゴシック建築と呼べる段階に移行している。

ロマネスク建築初期の特徴は大きくフランスのロワール川の南北で分けることができる。ロワール川以北では、初期ビザンティン建築と同様に、教会堂の形式としてバシリカが採用されたが、角柱に支持された分厚い石の壁で覆われた空間が好まれ、美学的には側廊と身廊を円柱でスクリーンのように分離し、壁面をモザイクとして物質性を否定するような初期キリスト教のバシリカとの関係性はほとんどないと言える。ロワール川以南では、ヴォールト天井を備えた単廊式教会堂が多く建設され、後に広間式教会堂と呼ばれる形式が発展した。バシリカと単廊式ともに、カロリング朝の時代から建設されており、建築史家によっては、8世紀から9世紀のカロリング朝建築をロマネスク建築に含める場合がある[2]。11世紀以降をロマネスクとする説では、それ以前のものを初期キリスト教建築、またはプレ・ロマネスク建築などと呼ぶ。

ロマネスクという言葉は19世紀から用いられるようになったが、19世紀の人々がどのように考えたにせよ、「ローマ風」の言葉が意味するほど、古代ローマの建築物と深いつながりがあるわけではない。ロマネスク建築は、ゲルマン民族の侵入によってローマ文化が途絶えてしまった地域で盛んになったのであり、初期の段階では、先行する建築物や同時期の他文明からの影響はほとんど認められない[3]
歴史

西ヨーロッパの建築の歴史は、メロヴィング朝フランク王国の建築や8世紀以前のアングロ・サクソン建築について、おぼろげながらその輪郭が描ける程度にすぎないので、カロリング朝フランク王国から始まることが一般的となっている。しかしながら、シャルルマーニュによって一時隆盛を誇ったカロリング朝の建築活動は、彼の死後、9世紀末から10世紀後半にかけて衰退した[4]。一般的に、ロマネスクの始まりは960年頃、あるいは政治的区分に従って1000年頃とされるため、カロリング朝建築はロマネスク建築に含まれないが、シャルルマーニュの時代にロマネスク建築の特徴となる要素の萌芽が認められるため、ロマネスク以前を便宜的にプレ・ロマネスク、あるいはプリロマネスクなどと呼ぶ[5]。ここでも、8世紀から10世紀末までをプレ・ロマネスクとし、11世紀以降をロマネスク建築として記述する。
プレ・ロマネスクサン・ペドロ・デ・ラ・ナーベ聖堂
ラテン十字平面の単廊式教会堂。中央の一段低い部分が身廊の付属室。サン・ミゲル・デ・リーリョ聖堂(オビエド
身廊に、低い側廊状の付属室と高い袖廊状の付属室が相互に取り付く。

プレ・ロマネスクの重要な建築形態は、バシリカと単廊式教会堂(Saalkirche)である。単廊式教会堂は、柱のない単一空間に内陣が連結した単純な教会堂で、しばしば、これにアプスや小礼拝室などが付け加えられる。単廊式教会堂は、ロマネスクの教会堂に側廊のないものがあること、教会堂が空間の足し算によって成り立っていることを証明するものである[6]。礼拝室などの付属室は不規則に連結する場合もあるが、身廊の左右に並べて側廊のように配置されることもあれば、身廊の左右に取り付いて袖廊を構成することもあった。付属室を四方に備えた単廊式教会堂としては、西ゴート王国の時代に建設されたサン・ペドロ・デ・ラ・ナーベ聖堂(691年頃)、レオン王国によるサンタ・クリスティーナ・デ・レーナ聖堂(800年頃)がある。

イタリア半島では、初期キリスト教建築の伝統的なバシリカが作り続けられたが、イベリア半島北部のアストゥリアス地方では、イタリアとは異なる性質を持つバシリカを生み出した。オビエドのサン・フリアン・デ・ロス・プラードス聖堂(800年頃)は、平面上では東端部にトランセプトを有するラテン十字型のバシリカであるが、トランセプトは身廊と側廊から明確に分節され、さらに身廊とトランセプトの両端部にそれぞれナルテクスが追加されている。初期キリスト教建築のような空間の一体性はなく、独立した各部分を寄せ集めたかような形態である。サン・ミゲル・デ・リーリョ聖堂(800年頃)は、現在では西半分しか残っていないが、当初の教会堂はかなり容易に復元可能である。平面はバシリカであるが、側廊は天井の低い部分と袖廊のように天井が高い部分が繰り返されており、やはり内部空間は分離している。ドイツに建設されたバシリカは、イベリア半島のものよりも初期キリスト教のものに近いが、アーケードは円柱ではなく、太い角柱で構成された。また、東端部はアプスで終わるのではなく、より複雑な構成をとる傾向にあった。

プレ・ロマネスクのもうひとつの重要な特徴は、西構え(Westwerk)の発明である。ロマネスク建築からカロリング朝建築を外すことが難しいのは、まさにこの西構えという形態を創造したことにある。西構えとは、上部に のような外観の突出部を備えた西端部であり、実際これはその当時に塔と呼ばれ、次いで完全な塔となった。正方形平面で多層階から成り、1階が玄関広間、2階に東側をアーケードで身廊に解放した大広間を持つ。プレ・ロマネスク期の西構えは、コルヴァイのザンクト・ヴィートス旧大修道院教会堂のみが、かなり改変された状態ではあるが残っている。現在は教会の軸線に対して幅が広く、奥行きの浅い塔状の構造物で、後に横断型西正面と呼ばれる形態に近いが、かつてはほぼ正方形の平面で両側の塔は中央塔よりも小さかった。内部は1階がロマネスク建築の広間式クリュプタと呼ばれる形式で構成され、2階に広間を備える。一般にこれは皇帝の玉座室か皇帝専用の礼拝室であったとされる[7]が、これを裏付ける資料はなく、儀式のために必要な空間、あるいは教会堂に付属する補助的な教会堂とする説もある[8]


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