ロベール2世_(ノルマンディー公)
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ロベール2世
Robert II
ノルマンディー公

在位1087年 - 1105年

出生1054年
ノルマンディー公国
死去1134年2月10日
ウェールズ、グラモーガン、カーディフ城
埋葬 イングランド王国グロスター大聖堂
配偶者シビラ・オブ・コンヴェルサーノ
子女ギヨーム・クリトン
家名ノルマン家
父親イングランドウィリアム1世
母親マティルダ・オブ・フランダース
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アンティオキア攻囲戦(1097年 - 1098年)で戦うロベール2世ロベール2世の墓
グロスター大聖堂

ロベール2世(フランス語:Robert II, 1054年頃 - 1134年2月10日)は、ノルマンディー(在位:1087年 - 1105年)。その身長から「短袴公(Courteheuse)」と呼ばれる。イングランド兼ノルマンディー公ウィリアム1世と妃でフランドル伯ボードゥアン5世の娘マティルドの長男[1]ウィリアム2世ヘンリー1世の兄。
生涯

若いころから父に反抗し、一度は戦闘中に父を殺しかけたことがあり、何度か追放を受けた。追放中に各地を旅して、トスカーナ女伯マティルデに求婚したともいわれる。武人としてはまずまずだったが、性格は気まぐれで夢想的なところがあり、実務的な統治者には向いてなかったとされる。ウィリアム1世はロベールを父祖伝来の地ノルマンディーの後継者としたが、イングランドの後継者は定めなかった。

このため、1087年にウィリアム1世が死ぬと、いち早く次弟のウィリアムがロンドンへ駆けつけウィリアム2世(赭顔王)として即位した。以降、何度かイングランド王位をめぐってウィリアム2世と戦ったが、両者がお互いの後継者となる(生き残った方が亡くなった方の領土を継承する)ことで和解した。1096年第1回十字軍が始まると、ノルマンディー公領を担保にウィリアム2世から金を借りて参加し、南イタリアのノルマン勢(ボエモンなど)と合流して聖地に向かった。

1100年に十字軍から帰路の途中でウィリアム2世が亡くなった知らせを受けたが、ノルマンディに戻った時には既に弟のヘンリーが王位に就いていた。このため、王位を主張してイングランドに侵攻したが、イングランド諸侯の支持を得られず、ヘンリー1世(碩学王)の王位を認めざるを得なかった。その後もイングランドの反乱者と組んでヘンリー1世と対抗したため、1105年からヘンリー1世によるノルマンディー侵攻を受け、1106年タンシュブレーの戦いで敗れて捕らえられると、ノルマンディー公位を奪われ、生涯幽閉された。
子女

1100年、十字軍から帰路の途中でコンヴェルサーノ伯ゴッフレード(ロベルト・イル・グイスカルドの甥)の娘シビラと結婚、息子を1人儲けた[2][注釈 1]

ギヨーム・クリトン(1102年 - 1128年) - フランドル伯(ギヨーム1世、在位:1127年 - 1128年)

また、以下の庶子を儲けた。

リシャール(1079年頃 - 1100年5月) - ニュー・フォレストで狩りの最中に死去

ギヨーム(1079年頃 - 1111年) - リシャールと同母兄弟[4]。1106年以降に聖地に向かい、トルトーザ領主とされた[5]

娘 - アルク伯エリー・ド・サン=サンス(英語版)と結婚[6]

注釈^ 唯一の息子ギヨーム・クリトンを産んですぐにシビラはルーアンで死去し、ルーアン大司教ギヨーム・ボナ=アニマが葬儀を執り行う中、大聖堂に埋葬された[3]


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