ロベルト・ヴァルザー
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ローベルト・ヴァルザー

ローベルト・ヴァルザー(Robert Walser、1878年4月15日スイス・ベルン州ビール生まれ、1956年12月25日アペンツェル=アウサーローデン州ヘリザウ近郊にて没)は、スイスのドイツ語作家。
生涯
1878-1897年

ローベルト・オットー・ヴァルザー (Robert Otto Walser)は、文具と額縁を扱う製本業者・工房所有者アドルフ・ヴァルザー(Adolf Walser, 1833-1914)と妻エリーザベト・ヴァルザー(Elisabeth Walser, 1939-1894)の6男として生まれた(兄弟姉妹8人のうち下から2番目)。[1]カール・ヴァルザー(Karl Walser)は舞台美術家・画家。ベルン州の独仏二言語境界の街ビール(Biel)で育ち、ビール市内の初等・中等学校に通ったが、学費の支払いができなくなり、中退せざるをえなかった。ヴァルザーは早期から演劇に興味をもち、とくにシラー(Friedrich Schiller)の『群盗(Die Rauber)』に熱狂していた。兄カール・ヴァルザーは『群盗』のカール・モールの扮装をした少年ローベルトを水彩画で描いている。

母エリーザベトは「情性疾患」(一種の精神疾患に対する当時の名称)と診断され、長年にわたり長女リーザが面倒を見ていたが、その母が1894年に亡くなった。スイスの独文学者ペーター・フォン・マット(Peter von Matt)によれば、母親に対するヴァルザーの共生関係は彼の創作にとって本質的であるという。[2] ヴァルザーは1892年から1895年までベルン州立銀行ビール支店で見習い勤務、続いて短期間バーゼル(Basel)で働いたのち、1895年、兄カールがいるドイツ南西部シュトゥットガルト(Stuttgart)に移り住み、ここでドイツ出版社協会 (Union Deutsche Verlagsgesellschaft) の広告部で文書係として勤務した。[3] そのかたわら役者になろうと試み、宮廷劇場でオーディションを受けたが、不首尾におわった。ヴァルザーはそこから徒歩でスイスに戻り、1896年9月末にはチューリヒ到着を届け出ている。その後数年間、事務員やタイピストとして雇用されたが、不規則であり、また頻繁に職場を替えた。ヴァルザーはその後、雇われの事務員という存在を初めて文学テーマに取り入れたドイツ語作家のひとりとなった。
1898-1912年

1898年、文芸批評家でありベルン日刊新聞『ブント紙(Der Bund)』の文芸欄編集者J. V.ヴィートマン(Joseph Victor Widmann)が、新聞日曜版にヴァルザーの詩6篇を掲載した。これに注目したフランツ・ブライ(Franz Blei) は1899年、文芸誌『インゼル (Die Insel)』周辺のユーゲントシュティール(Jugendstil)のグループにヴァルザーを引き入れ、ここでヴァルザーはヴェーデキント(Frank Wedekind)、ダウテンダイ(Max Dauthendey)、ビーアバウム(Otto Julius Bierbaum)等と知り合った。『インゼル』にはその後もヴァルザーの詩や小劇、散文小品が掲載された。

ヴァルザーは1905年まで主にチューリヒに居を定め、市内でたびたび転居したが、その間もトゥーン(Thun)、ソロトゥルン(Solothurn)、ヴィンタートゥア(Winterthur)、ミュンヘン(Munchen)といった街や姉リーザのいるビール湖畔の村トイフェレン(Tauffelen)で暮らした。1903年に初年兵学校を卒業し、夏からチューリヒ近郊ヴェーデンスヴィル(Wadenswil)の技術者・発明家カール・ドゥプラー(Carl Dubler)のもとで「助手」として雇われたが、このエピソードは小説『助手(Ger Gehulfe)』(1908)の素材となった。1904年、『フリッツ・コハーの作文集(Fritz Kochers Aufsatze) 』がインゼル社から刊行され、これが初めての出版本となった。

1905年初夏、ヴァルザーはベルリンで召使養成コースを修了し、同年秋にはオーバーシュレージエン(Oberschlesien)のダムブラウ城(Schloss Dambrau)で従僕として数ヶ月間雇用された。この「従属」というテーマはその後、彼の作品全体を貫くことになるが、とくに小説『ヤーコプ・フォン・グンテン(Jakob von Gunten)』(1909)においてはっきりと現れている。1906年始め、ヴァルザーは再びベルリンへ赴いた。当時ベルリンでは兄カールが画家・エッチング画家・舞台美術家として活躍しており、ヴァルザーに作家や編集者、舞台関係者の集まりへの門戸を開いた。ヴァルザーは時折ベルリン分離派の秘書として働いたこともあり、この時期に編集者ザムエル・フィッシャー(Samuel Fischer)やブルーノ・カッシーラー(Bruno Cassirer)、企業家ヴァルター・ラーテナウ(Walther Rathenau)、俳優アレクサンダー・モイッシ(Alexander Moissi)と知り合ったことはとくに重要である。

ヴァルザーはベルリン滞在中、6週間で小説『タンナー兄弟姉妹(Geschwister Tanner)』を書き上げ、1907年に出版した。2作目の小説『助手』の刊行は1908年、『ヤーコプ・フォン・グンテン』の刊行が翌年に続いた。これらは全てブルーノ・カッシーラー出版から刊行されたが、当時の編集顧問はクリスティアン・モルゲンシュテルン(Christian Morgenstern)であった。[4] この時期ヴァルザーは小説と平行して散文作品も執筆し、言葉遊びをしながら、そしてきわめて個人的に、貧しいのらくら者の視点から、たとえば「アッシンガー(Aschinger)」や「ゲビルクスハレン(Gebirgshallen)」といった大衆居酒屋の様子をスケッチした。彼の小説や散文作品は『シャウビューネ誌(Schaubuhne)』、『新ルントシャウ誌(Neue Rundschau)』、『ツークンフト誌(Zukunft)』、『ラインランデ誌(Rheinlande)』、『新チューリヒ新聞(Neue Zurcher Zeitung)』、『新メルキュール誌(Die neue Merkur)』 といった新聞や文芸誌に掲載され、きわめて好意的に受け入れられた。ヴァルザーはベルリンで文学活動の基盤を固めたのである。[5] 彼の散文はとくにローベルト・ムージル(Robert Musil)やクルト・トゥホルスキー(Kurt Tucholsky)に称賛され、ヘルマン・ヘッセ(Hermann Hesse)やフランツ・カフカ(Franz Kafka)といった作家たちに愛読された。
1913?1929年

1913年にヴァルザーはスイスへ帰国し、当初はビール近郊のベレレー(Bellelay)の精神病院で教師をしていた姉のリーザのもとに身を寄せた。そこでヴァルザーは洗濯女として働いていたフリーダ・メルメ(Frieda Mermet)と知り合い、以来、二人はその後続く手紙のやりとりに読み取ることのできるような親密な友人関係を結ぶこととなった。ヴァルザーはその後、ビール市内の父の家でしばらく暮らし、1913年7月には「青十字ホテル(Hotel Blaues Kreuz)」の屋根裏部屋に移り、1920年までそこで暮らした。父は1914年に他界している。

第一次世界大戦中、ヴァルザーは数度にわたって兵役義務を果たさなければならなかった。1916年末には、数年前より精神の病を患っていた次兄エルンスト(Ernst)がヴァルダウ(Waldau)の精神病院で死んだ。1919年には、ベルン大学の地理学教授となっていた長兄ヘルマン(Hermann)も自ら命を絶った。この時期、戦争のためにドイツとの関係も絶たれたヴァルザーは、孤独の中を生きていた。著作活動は熱心に行っていたが、執筆で食べていくことは非常に厳しい状況であった。

ビール時代、ヴァルザーは散文小品を多数執筆し、それらはドイツやスイスの新聞、雑誌に発表されるともに、『作文集(Aufsatze)』(1913年)、『物語集(Geschichten)』(1914年)、『小詩文集(Kleine Dichtungen)』(1915年、奥付は1914年)、『散文小品集(Prosastucke)』(1917年)、『小散文集(Kleine Prosa)』(1917年)、『詩人の生(Poetenleben)』(1917年、奥付は1918年)、『喜劇(Komodie)』(1919年)、『湖水地方(Seeland)』(1920年、奥付は1919年)などの書物に編まれて刊行された。[6] このうち『小詩文集』は1914年、「ラインラント詩人の顕彰のための女性協会(Frauenbund zur Ehrung rheinlandischer Dichter)」による賞を受賞し、女性協会のために初版が出版された。1917年にはこの時期唯一の中編作品である『散歩(Spaziergang)』が書かれている。

ヴァルザーは終生、散歩を愛好したが、とりわけこの時期は、長い徒歩旅行を繰り返し行い、まさに強行軍と呼ぶべき夜間の徒歩旅行も何度か試みている。この時期の散文小品には、近くにありながらも異郷となった世界を「他者」として歩いてゆく歩行者の視点から語られる作品、また、作家や芸術家をめぐって戯れるように書かれた作品が見られる。1913年から1921年のビール在住期間には「古くかつ新しい環境への関心」[7] がみられ、形式的、主題的には自然観察と牧歌的テーマへの転調が認められる。

1921年初め、ヴァルザーはベルンへ転居し、数ヶ月をこの都市の公文書館の「臨時職員」として過ごした。今日では散逸してしまった長編小説『テオドール(Theodor)』が書かれたのはこの時期である。ベルンでは世間から引きこもった生活を送り、12年間に16の家具付き部屋を転々と移り住んだ。[8]
1929-1956年

1929年初め、少し以前から不安と幻覚の症状に苦しんでいたヴァルザーは、精神の虚脱状態に陥ったのち、精神科医の助言と姉リーザの要請を受け、ベルン近郊のヴァルダウの精神病院に入院した。医師の記録には次のように書かれている。「患者は幻聴が聞こえることを認めている」。これを自ら進んでの入院と言うことはできないかもしれない。施設で数週間を過ごしたのち、状態が正常に復したヴァルザーは、引き続きテクストを著述、発表したが、執筆は中断をはさみ、全体量としても、先行する数年にははるかに及ばなかった。

その際、ヴァルザーは引き続き、みずからが「鉛筆書き書法」と名付けた執筆方法で書いていた。すなわち、彼は、ドイツ語筆記体の、末期には1ミリほどの大きさとなったミクログラムと呼ばれる微小文字で詩や散文のテクストを書き、執筆作業の第二段階においてそれを取捨選択、推敲しつつペンで清書した。とはいえ、この時代の草稿はさほど残されてはおらず、清書テクスト、出版テクストの方が多く残っている。1933年に自身の意に反して故郷の州にあるヘリザウの精神病院に移されてはじめて?自身もまた詩人であり浩瀚な作品を出版していた所長のオットー・ヒンリクセン博士(Dr. Otto Hinrichsen)によって「文学活動のための部屋が用意されたにもかかわらず」[9] ?ヴァルザーは書くことをやめたのだが、そこにはおそらくナチ政権が権力を掌握したことでドイツの新聞や雑誌で発表するための基本的市場そのものが消えてしまったという事情も関係していただろう。他の入所者たちと同じように、ヴァルザーは紙袋作りや掃除の仕事に従事した。余暇の時間には好んで娯楽小説を読んでいた。

ヘリザウの精神病院には、1936年以降、ヴァルザーの崇拝者であり、後には後見人ともなるスイス人作家にして芸術支援者カール・ゼーリヒが訪れるようになり、この時期のヴァルザーとの会話について、後に著作『ヴァルザーとの散歩(Wanderungen mit Robert Walser)』で報告している。カール・ゼーリヒは早い時期から、新たに著作を刊行することで、忘れ去られようとしていたヴァルザーを再び著名にしようと力を尽くした。兄カールの死(1943年)と姉リーザの死(1944年)の後、ゼーリヒはヴァルザーの後見を引き受けた。偏屈になってはいたものの、とうに精神病の徴候がなくなっていたヴァルザーは、この時期には施設を離れることを繰り返し拒んだという。

ヴァルザーは長く孤独な散歩を好んだ。1956年のクリスマスの朝、ヴァルザーは雪原を散歩している途上、心臓発作で死に、ほどなくして発見された。雪中に倒れた散歩者の写真はほとんど不気味なほどに、最初の長編小説『タンナー兄弟姉妹』での詩人セバスチャンの死の姿を想起させる。
作品と受容
概要

ローベルト・ヴァルザーのテキストにおいて特徴的なのは戯れるような明朗さであるが、しかしそれはしばしば実存の強い不安に伴われている。とくに初期作品の多くは、一見素朴で戯れているような印象を与えるが、この単純さの装いの背後には、一方できわめて現代的で精確な日常の観察が隠されており、それは他方で、しばしば現実から離れて非常に技巧的で自己関係的な形式世界・言語世界へと向かう。それゆえにこそ、ようやく1960年代半ば以降になって完全刊行されたヴァルザーのテキストは、現在ではモデルネ文学の重要な作品とみなされている。彼のことばにおいては、スイス・ドイツ語の余韻が魅力的かつ新鮮な響きを生み出していると同時に、きわめて個人的な考察が「テクストについてのテクスト」--すなわち他の文学作品についての省察やそれらの変奏--と織り合わされている。


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