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出典検索?: "ロベルト・リベリーノ"
リベリーノ
名前
本名ロベルト・リベリーノ
Roberto Rivelino
愛称リーバ
ラテン文字RIVELINO
基本情報
国籍 ブラジル
生年月日 (1946-01-01) 1946年1月1日(78歳)
出身地サンパウロ市
身長169cm
体重73kg
選手情報
在籍チーム引退
ポジションFW/MF
利き足左足
クラブ1
年クラブ出場(得点)
1962-1975 コリンチャンス 471 (141)
1975-1978 フルミネンセ 158 (53)
1979-1982 アル・ヒラル 57 (23)
代表歴
1965-1978 ブラジル122 (43)
監督歴
1994 清水エスパルス
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj
ロベルト・リベリーノ(Roberto Rivelino, 1946年1月1日 - )は、ブラジル・サンパウロ出身の元サッカー選手、指導者。元ブラジル代表。現役時のポジションはフォワードとミッドフィールダー。ニックネームはリーバ(ヒーヴァ)。ホベルト・ヒヴェリーノとも表記される。
1978年のワールドカップメンバーに共に名を連ねたゼ・セルジオは甥にあたる[1]。イタリア・モリーゼ州イゼルニア県マッキアゴーデナにルーツを持つイタリア系ブラジル人である[2]。
利き足である左足から巧みなフェイント、正確なパスや強烈なシュートを放ち、またフリーキックの名手でもあることからボンバー、左足の魔術師と呼ばれた。ディエゴ・マラドーナ、三浦知良が幼少の頃憧れを抱いていた選手として著名[3][4]。 1962年にコリンチャンスに入団。1965年にトップチームの公式戦にデビュー。同年、19歳でブラジル代表に初選出されハンガリー戦に出場した。 1970年のメキシコワールドカップでは、左ウイングのレギュラーとして、グループリーグ初戦で1ゴール、準々決勝のペルー戦では1ゴール2アシスト、準決勝のウルグアイ戦でも1ゴール[5]、決勝のイタリア戦では1アシストと3ゴール3アシストの活躍で[5]、優勝に貢献した。ペレ、トスタン、ジャイルジーニョ、ジェルソン、クロドアウドらを擁したブラジルは、7戦全勝と強さを見せつけ、史上最強のブラジル代表といわれた。 ペレの引退後のブラジル代表ではジェルソンの背番号8をつけトップ下の位置で1974年から背番号10をつけ、ペレの後継者として活躍した。 1974年のワールドカップでは、2次リーグの3試合で2ゴールを挙げるなど、合計3得点を挙げた[5]。この大会では対東ドイツ戦では、相手選手の作った壁の間にはいったジャイルジーニョがリベリーノがボールを蹴る直前にしゃがみ込み、そのわずかなすき間を通過させるという、トリッキーなゴールを決めた[2]
経歴
選手
また、準決勝ではオランダ代表のチーム戦術の「ボール狩り」で顔面パンチと肘打ちの洗礼を受けた[11][12][13]。
1978年のワールドカップでは、戦前はリベリーノの大会と言われていた。初戦のスウェーデン戦ではフル出場するも[5]、足の負傷で3試合の出場にとどまった。
リベリーノはワールドカップに3度出場、15試合6得点。代表公式戦には通算122試合出場、43得点をあげた。
晩年はサウジアラビアのアル・ヒラルでプレーし1982年に引退。 1994年セカンドステージから清水エスパルスの監督に就任したが、成績不振のためこの年限りで辞任した。また、後にブラジル代表選手となるジャウミーニャを入団させた。
引退後